わきまえない同人誌出します。
同人活動って面白い。
だから昨年に引き続き今年も同人誌出しちゃう。
という話です。つまるところ。
以前、森喜朗の女性差別発言に抗議する内容の記事を書きましたが、
私はもともと、「不利益をこうむりたくはないし、性差別はよくないけど、反論したところで取り合ってくれる男なんていないし、結局どうしようもないよね」という立場の人間でした。
日常で当たり前のように遭遇する女性差別にいちいち噛みつくのは面倒だし、
噛みつく元気がある"頑張れる人たち"に任せておけばいいと思っていました。
ではなぜ急にあんなことを言い出すようになったのか。
自分自身の変化の観察記録を兼ねて、書き残しておこうと思います。
——時は遡ること2020年11月22日。
私は友人と一緒に、東京流通センターで開催された「第三十二回文学フリマ東京」の一角にブースを出していました。
初めての同人誌出版。
まさかこんな遊びを覚えるとは。
感性の動物園かここは。
漫画を描いたり、小説を書いたり、ハンドメイド作品を作ったり。
そういう創作活動が上手な人のためのイベントだと思っていました。
興味はあったし、行って作品を見たり買ったりするのはいいけど、
自分が出店者になるなんて。
なんでこんなことになったかというと、開催当日からもう少し遡って2020年5月頭。
最初の緊急事態宣言が発令され、外出を控えなければとはいえ、やっぱりストレスが溜まっていた時期です。
のちに、出店に関する様々な調整を担ってくれることとなった小学校の同級生と、
オンライン茶会(私は酒が飲めないので茶になった)でもしようという話になりました。
形だけのテレワーク(笑)のせいで人出の足りない時期に、わざわざ引継ぎが必要な人事異動が行われ、仕事量が爆発したことで休日出勤する羽目になった、とか。
大学院の授業がオンラインになっているが、安定したWi-Fi環境がない人もいれば、一人になれる部屋がない人もいて、総じて授業に集中できない、とか。
そんな近況報告から、やがて将来の話になりました。
会社の女性先輩社員を見ていると、マミートラックにはまった人たちばかりでどうも希望が持てない、とか。
大学院は男性が多く、発言時間が男性に奪われ(!)ろくに喋らせてもらえず、このまま研究の道を歩むことに不安を覚える、とか。
最初は紅茶とお菓子片手に愚痴っていただけだったのですが、次第に「女性であるというだけで、なんでこんなことで不安にならなければいけないのか」みたいな話が山ほど出てきました。
なんだか疲れてしまったのですが、話題の転換も兼ねて、友人が「知り合いが文学フリマっていうイベントに出るから興味があるんだけどさ」と切り出してから、事態は動きました。
なんぞ、それ。
「自らが<文学>と信じるもの」を自由に」販売するフリーマーケット形式のイベント
信じるもの?
つまり、信じてさえいればなんだっていい?
私は文学部出身ではありません。
確かに読書は大好きでしたが、積極的に文学を愛してきたというわけでもありません。
でも、「若い女性をテーマになんか書こうと思ってるんだけど、どうかな」なんて言われたら。
ちょうど今、物申したいことはたくさんある。
その気にさせる天才っぷりを発揮した友人の話に、私はうかうかと乗りました。
ええ。手のひらでこ~ろころですわ。
最終的には、家族、学校や会社などで感じた違和感をなんとか発信したい、という女性4人で共著という運びになりました。
それぞれの取りたい表現手段を尊重し、詩や小説、短歌なんでもござれのアンソロジーという形式で。
その作品がこちら。
夏のカノープス『娘たちはとびらをひらく』
日本からは、冬の時期にようやく見えるか見えないかくらいの位置にある星です。
あえて "夏の" としたのは、見ることができない、でも、存在しないことにはならないという意味を込めています。
そして、「娘」という漢字は、「良い女」と書きます。
それは誰にとって?
ひょっとすると、「社会にとって都合の」良い女?
先日の森喜朗の「わきまえて」発言がよぎります。
わきまえるという言葉は通常、「立場」や「身の程」という言葉が頭につきます。
用いるにあたって、支配と被支配といった抑圧的な関係性を意識せざるを得ない言葉なのです。
森喜朗の発言を「笑った」男性評議員がいたという事実が、この発言が彼個人の偏見にとどまらないことを示唆しています。
同じように考えていた人が他にもいた、ということです。
話がそれましたが、つまりは女性性に被支配的立場、従属性を暗に強いて、閉じ込めようとする社会が、今もなお確かに存在しているという主張を込めた作品です。
通販やってますので!気になる人はぜひ!買って!超麗しい栞もついてるから!
→娘たちはとびらをひらく - 夏のカノープス - BOOTH
さて、この既刊をさらに発展させるためにどうしようか。
友人と次の構想を練りながら話題に上ったのが "フェミニズム" でした。
それを前面に出そうと提案されて、私はいったんブレーキを踏みました。
フェミニズムってなんか知らないけど過激な思想じゃないの?
それを中心に置くとか怖くない?
多くの初心者が陥るトラップに私もすっぽりはまります。
でも同時に、避けては通れない道であることも薄々感づいていました。
世の中にあふれかえる差別の中で、私はたまたま性差別に当事者意識を持つに至った。
であれば、「なんか危なそう」という偏見に逃げず、友人がどういう考えからその提案をしたのか理解する意図も含めて、きちんと勉強しよう。
次回の発刊まで時間がないから、不十分な理解で執筆に臨む可能性は否定できなくても、そもそも食わず嫌いでは表明するに値する言葉なんて紡げない。
自分の書く言葉には責任を持ちたい意地と、既刊の不完全燃焼感もあいまっての再出発です。
こんなのまともにやったら立派に大学講師務まっちゃうんじゃないの……
どのような形にするかはまだ企画中ですが、フェミニズムを軸に据えるという言葉を受け容れるに至った2冊を先に紹介しておきます。
①イ・ミンギョン『私たちにはことばが必要だ~フェミニストは黙らない~』タバブックス、2018年
②ステファニー・スタール、伊達尚美『読書する女たち~フェミニズムの名著は私の人生をどう変えたか~』イースト・プレス、2020年
この2冊は限りない勇気をくれました。
そして、フェミニズムを意識した本誌を出すにあたって、本当は思想そのものを恐れていたのではなく、フェミニズムについて知らない、知ろうとしない、かつての自分のような人からの批判、攻撃だったんだと気がつきました。
でも、もう恐れる必要はありません。
攻撃に反応する義務はない、行動しない人に否定する権利はない。
私は私の考えに基づいて行動し選択した結果として、フェミニズムの理解を進めた上で次の本誌の出版を目指しているから。
ちょうど企画の一環として、読書会をしようという話になりました。
次回以降は、下記の本を章ごとに読み進める過程を記録してみようかなと思います。
フェミニズムとは、ひと言で言うなら、「性差別をなくし、性差別的な搾取や抑圧をなくす運動」のことだ。
——ベル・フックス『フェミニズムはみんなのもの ~情熱の政治学~』2020年、エトセトラブックス
でも、違うトピックを見つけちゃったらごめんなさい。
飽きっぽいのが短所でして。