忙しいひとのためのフェミニズム②

同人誌を出したいので、フェミニズムについて勉強することにしました②。

 

こんにちは。

前回からだいぶ間が空いてしまいました。

気が付けば新年度が始まった……

花粉との戦いにたまりかねて念願の空気清浄機を購入し、昼夜問わず馬車馬のように働かせています。料理をしていると特によく反応します。

先日、バレないように弱火でそろりそろり火をつけたら、すぐに「空気が!汚いですよ!」ランプが真っ赤に点灯してウィンウィンうなり出しました。なかなか手ごわいです。

 

さて、前回の続き、引き続きベル・フックス『フェミニズムはみんなのもの 情熱の政治学』を読んでいきます。

念のため再掲しますが、本著書はアフリカ系アメリカ人、労働者階級出身というルーツを持つ女性ベル・フックスによるフェミニズム入門書です。

日本語版は2003年に新水社より発刊され、その後加筆修正を経て、2020年にエトセトラブックスより復刊しました。

 

<4章 批判的な意識のためのフェミニズム教育>

みんなにフェミニズムの思想と理論を教えるには、学生やインテリ層だけでなくもっとさまざまな人々に呼びかけ、書かれた文字だけではない手段を使わなければならない。ほとんどの人はフェミニズムの本を読む技術をもたない。本を吹き込んだテープ、歌やラジオやテレビなどをすべて使って、フェミニズムの知識を伝えることができる。(p.46)

 

2章で触れたように、フェミニズムを学ぶ場としての出発点は、女性グループの中でした。性差別とは何か、家父長制といかに闘うか、新しい社会のモデルとはどんなものか、自分たちの体験を持ち寄りながら、集いの中で女性たちは考え始めます。

 

こうした場でなんとなく形になったフェミニズム理論は、口頭で、あるいはパンフレットで、次いで出版されるようになり、少しずつ体系化されていきます。

 

このようにして、フェミニズムの本が出版されたり、歴史の中で葬られてきた女性たちの作品に光が当てられるようになったのは、地道なフェミニズム運動の成果のひとつでもあります。

やがて、女性の作品を学問や研究の対象とすることが制度的に認められるようになると、女性学という形で、ジェンダーや女性について、ひいては偏見や差別意識、階級や人種について、誰もが批判的に学べるようになりました。

 

しかし、フェミニズムはここで、学問として認められたがゆえの閉鎖性に直面します。

「専門家にしかわからない難しい用語を駆使したメタ言語学的な理論が注目されるようになった」り、「「内輪」にだけ通じる難解な理論を書くエリート集団をつくりはじめたかのよう」になっていきました。

 

高尚で退屈で、実践から離れた理論のためのフェミニズムでは意味がありません。

 

筆者はこうした閉鎖性を顧みて、「文章はさまざまなスタイルや形式で書かれる必要がある」と述べています。それは子どものための絵本であったり、あるいは若者文化に照準をあてた歌やラジオであったりと、学問の領域に留まらず、様々な媒体を想定しています。

 

みんなが生きやすい社会をつくるために、みんなに開かれた運動となっているか?という問いが、フェミニズムを正しい方向へと導くひとつの指針となりそうです。

 

<5章 わたしたちの身体、わたしたち自身 リプロダクティブ・ライツ> 

性と生殖に関する権利(リプロダクティブ・ライツ)は、わたしたちが大衆的なフェミニズム運動の炎を再び燃え上がらせようとするときにも、重要な課題でありつづけるだろう。女性たちが、自分自身のからだに起こることを選ぶ権利をもたないなら、わたしたちの生活の他の領域の権利をも手放す危険をおかすことになる。(p.55) 

 

1960年代における性革命(*)は、女性たちを望まない妊娠という問題に直面させました。

*たとえば、未婚女性の婚前交渉は恥だとするような伝統的な性道徳観や、性に関する社会通念からの解放を目指す動きを指します。

 

安全で効果的な避妊方法、あるいは中絶方法を選択できた女性など、階級的な特権を持つ裕福な白人女性以外、当時はほとんどいませんでした。真に性の解放を目指すならば、何よりもまずすべての女性が、こうした方法に平等にアクセスできるようにしなければなりません。

 

しかし、避妊や中絶に関心をもつ女性は性的にルーズであるとみなされたり、(女性の存在理由は子どもを産むことにあるとする)キリスト教教義への反逆とみなされたりして、権利を求める運動は保守系からの攻撃にさらされることになりました。

自分で自分のからだを管理する権利を手にできないとき、女性はつねに無力な立場に置かれ、一方的な搾取の犠牲になり得るにもかかわらず、です。

残念なことに、こうした反動は現在もまだ様々な地域で起きています。

 

また、避妊や中絶だけがリプロダクティブ・ライツのすべてではありません。

筆者は、今後のフェミニズムの課題として性教育や予防的な健康管理やすぐに手に入る避妊手段がすべての女性に提供され」ることを包括的に、そして不断にとりあげるべきであると述べています。

 

<6章 内面の美、外見の美>

フェミニズム革命とそれによってもたらされた衣服によって女性たちが教わったことは、わたしたちの肉体は自然なままで愛や称賛に値する、ということである。その女性が、自らもっと着飾りたいと選択するのでないかぎり、何もつけ加えられる必要はないのだ。(p.58)

 

フェミニズム改革が成し遂げた功績のひとつは、「女の価値は外見次第」ではないと宣言し、女性解放の核心に迫ったことでした。

それは具体的には、コルセットなど、不健康で窮屈でからだを締めつけるような衣服から女性を解放し、「女性たちが、その人生のあらゆる段階において心地よい衣服を身に着けてよいことを、より深いレベルで確認するもの」でした。

 

しかし、化粧品やファッション業界の経営者や資本家たちは、こうした動きによって自分たちの商品が売れなくなるのではないかと恐れ、マスメディアを通じて「フェミニストとはデブでブスで男まさりの中年女だ」というイメージを拡散していきます。

 

 こうした業界に対しフェミニストは、サイズや体系の多様性に富んだ商品を作るよう要求しました。同時に、女性たちは自らの選択として美しさやスタイルへの愛を追求できるのだと示し、男性からの評価を前提にした外見の美に代わる、女性による女性のための外見の美という考え方を提案しました。

 

フェミニストの呼びかけは医薬業界にも及びます。

消費としてお金を使う圧倒的な数の女性たちが、女性のためのヘルスケアの場を求めていることを知るや、業界は女性のからだをより尊重し大きな安心と健康をもたらすよう方向転換しました。

たとえば、外見についての強迫観念がもたらす健康障害として代表的な拒食症や過食症、あるいは女性に多い癌(なかでも乳がん)についてこれほど積極的に取り上げられるようになったのは、こうした運動の成果のひとつです。

 

それでも、今なお女性たちは、自分の値打ちや美しさや本質的な価値が、より若く、よりやせているかどうかで決まるという呪いから解放されてはいません。ある一定の規格から外れた商品は、一般の人向けに売られるものより高価に設定されている場合も多く、平等なアクセスが確保されているとは言いがたい状況です。

 

性差別的な感性がそこかしこに氾濫する状況に対するフェミニズムの課題を、筆者は「(性差別をなくすような)新しい美のイメージを創りだし」、「美についての性差別的な基準をなくす闘いを」継続することであると指摘しています。

 

<7章 フェミニスト階級闘争

女性解放運動が始まったとき、参加者のほとんどは白人であり、そこで一番際立った分断は階級による分断だった。労働者階級の白人女性たちは、運動のなかに、階級差が存在していることに気づいていた。(中略)しかし、フェミニズム運動が進展し、特権をもった高学歴の白人女性の集団が、特権階級の男性と平等に権力を手にするチャンスを得るようになると、フェミニズムにとって、階級闘争はもはや重要な物とは見なされなくなった。(p.65)

 

6章までは、フェミニズムと社会のかかわりについて述べてきましたが、本章ではフェミニズムが内包する課題に焦点を当てていきます。

 

引用の通り、階級差による女性の分断は長らく、フェミニズム運動に参加した女性たちの議論の的でした。

 1960年代前半において、高学歴特権階級の白人女性とそれ以外の女性たちでは、それぞれが感じる危機が明確に異なっていました。著者は、「特権階級の女性たちが、家庭に閉じ込められることの危険性について不満を述べていたとき、アメリカの圧倒的多数の女性たちは家の外で仕事に就いていた」と描写します。

 

さらに筆者は、1970年代半ばに出版されたシャーロット・バンチとナンシー・マイロン編『階級とフェミニズム』に取り上げられたリタ・メイ・ブラウンを引用し、階級の本質を「階級は、その人の態度や物の見方、その人が受けた躾、自分自身や他人からどう見られるか、将来の展望、問題の理解と解決法、さらには、その人がどう考え、感じ、行動するかといった、すべてに関わるもの」と表現します。

 

単に経済的に裕福か貧しいかといった差ではないということです。

 

しかし、自らこそがフェミニズム運動を牽引し、他の女性たちを代表するのだと息まく白人特権階級の女性たちが行ったのは、結局のところ、自分たちと同じ白人特権階級の男性と同等の社会的立場、経済力の獲得でした。

結果的に、白人至上主義に見事に加担する形となったのです。

 

白人特権階級の女性たちが職場における男女平等を実現したと思っているとき、そこに残ったのは、相変わらず家政婦や下働きなど、低賃金労働によって搾取され続ける他の階級の女性たちでした。

 

平等の実現に見せかけて、実際は他者からの搾取を前提にするならば、それはフェミニズムに対する裏切りであり、目指すべきところではありません。

いまだ厳然と横たわる階級の問題から目を背けず、議論し続けることが肝要です。

 

 

→忙しいひとのためのフェミニズム③へ続く