忙しいひとのためのフェミニズム⑤(最終回!)

ベル・フックス『情熱の政治学 フェミニズムはみんなのもの』まとめシリーズ、やっと最後です。お待たせしました。

今回は16~19章のまとめになるのですが、ここは最後にして一番読解に苦労しました。特に18章がちょっと難しいというか。

初めて読んだときも、読書会で議論したときも、改めて読み返しても、うなぎがするする逃げてしまうような感覚というか、つかんだと思ったのに手元にはいない、みたいな気持ちで読みました。

ちなみに、わたしはうなぎの細かい骨が苦手で食べられません。とあるアニメのおまけ番組で、料理研究家のきじまりゅうたさんが紹介されていた「うなぎの代わりにちくわで作る蒲焼き」はマジで天才だと思いました。あのタレを!食える!うなぎ以外で!

 

時代はちくわです。

 

<16章 完全なる至福 レズビアンフェミニズム

物知りで力強くやさしいレズビアンの女性たちが、まだ少女だったわたしに教えてくれ、その後も伝えつづけてくれたのは、楽しく幸せに暮らすために、女性は男性に頼る必要はないのだ、ということだった——性的な喜びという点でも、男性に頼る必要はないのだ、と。(p.149)

 

搾取される集団の一員であるからといって、全員が全員抵抗に駆り立てられるわけではありません。レズビアンだからフェミニストになるとか、レズビアンだから政治的になるという発想はあまりにも偏っています。「女性が左翼運動に関わるとき、そこにはふつう、体験に加えて自覚と選択という要素がある」とフックスは述べています。

 

十人十色の人生を歩んできた女性たちは、フェミニズム運動が本格的に活発になる前から、先んじて公民権運動や黒人左翼運動に参加していました。そこでラディカルな考えを持つと同時に、女性ゆえに従属的な立場を強いられたとき、自分自身のための闘いとしてフェミニズム運動が起こりました。

 

男性の同性愛はある程度地位を得ているのに、女性のそれは隅に追いやられていたり。ありのまま生きられるほど寛容な社会ではないがゆえに、男性との恋愛を選ぶレズビアンがいたり。フックスが生まれ育った南部の黒人社会は「厳格で狭量なキリスト教社会」であるがゆえに、その中で生きる女性たちは複雑な立場にありました。それでも、顔を上げて生きる姿勢を通じ、ありのままのじぶんでいられる自由を主張する大切さを教えてくれたのは、やはりレズビアン女性たちだったとフックスは言います。

 

主流のマスメディアが取り上げたのは、結局のところ「男性に脅威ではない」フェミニストであり、経済的にも精神的にも男性を欲望しない生き方をする女性は叩かれ、日陰者となることを強いられてきました。それは、彼女たちから語られる言葉の無効化とほぼ同義です。ゆえに、常にラディカルな議論の先頭に立ち、異性愛至上主義の壁を突き崩した彼女たちの功績は、これからも認められ、大事にされなくてはならないとフックスは結びます。

 

<17章 愛ふたたび フェミニズムの心>

フェミニズムが愛について、とりわけ異性愛の男女関係における愛について語らなかったことで、わたしたちは、家父長主義的なマスメディアがフェミニズム運動全体を、愛ではなく憎しみにもとづいた運動であるように描くことを許してしまった。(p.160)

 

フェミニズム運動が始まったころ、女性たちは異性愛の男女関係に深く失望していました。結婚した瞬間から、男性は「すてきな王子様」ではなく家父長主義的な家長に変貌してしまったからです。結果的に、運動の初期におけるフェミニズムは、異性愛を否定することで問題を解決しようとしました。フックスはその時に感じた違和感を、次のように振り返ります。

 

フェミニズムのコンシャスネス・レイジングの集まりに初めて参加し、母くらいの年の女性たちが自分の痛みや悲しみや怒りを口にし、女は恋愛なんかしてはだめだと繰り返し言うのを聞いたとき、わたしにはその意味がよく分かった。それでも、わたしはよい男性と恋愛をしたいと思ったし、わたしにはそういう愛を見つけることができると信じていた。ただ、絶対に確信していたのは、そのためにはまず、相手の男性がフェミニズムに心から賛同しなくてはならない、ということだった」

 

家父長主義的な文化における「愛」は、所有や管理、支配の概念と深く結びついています。ロマンチック・ラブを言い訳に服従を強いられることに幻滅していた女性たちは、やがて愛について語らなくなっていきました。愛から身を遠ざけ、心を石のように固くし、権力や経済力を追い求めることこそ家父長主義への抵抗であると考えるようになったのです。

しかし、それは皮肉にも(フェミニストが最も嫌悪していたはずの)家父長主義的な男性のように生きる女性を生んだだけでした。愛、家族の絆、他人と共生する価値について否定されていると感じた女性たちは、やがてフェミニズムから離れていきました。

 

「愛」という装置が覆い隠している支配構造を批判することと、愛を否定することは違います。前者を指摘した功績は確かですが、新しい「愛」のヴィジョンを示すことが出来なかったのはフェミニズムの反省点です。「すべての人の必要が尊重され、だれもが権利をもち、従属させられたり虐げられたりする不安がないような人間関係のヴィジョン」を示すことがフェミニズムの課題であり、「家父長主義的な人間関係のあり方のすべてと対決するものだ」とフックスは述べています。

 

<18章 フェミニズムスピリチュアリティ

男性に支配された宗教の性差別にもかかわらず、女性たちは信仰に、慰めや避難の場を見いだしてきた。女性たちは、西洋社会で教会の歴史が始まったときからずっと、男性の干渉なしに神と共にいられる女性だけの場として、そして男性支配なしに神聖な奉仕に身を捧げられる場として、伝統的に修道院を選んできたのである。(p.163)

 

フェミニズム運動は、家父長主義的な宗教の在り方を批判し、あらゆる差別や抑圧のイデオロギー的な基礎となっていることを指摘しました。信仰の在り方を根本的に問い直す風潮は、1960年代に若者を中心に隆盛した「新時代(ニューエイジスピリチュアリティ」と深く関連しています。長らく西洋人の精神世界を支配してきたキリスト教原理主義から離れ、キリスト教以前の土着信仰や東洋世界に目を向けたことで、キリスト教をめぐる新たな批判と解釈が展開し、その教義を捉え直す機会が生まれました。

 

アメリカ合州(原文ママ)国の圧倒的多数の市民は自分をキリスト教徒だと思っている」社会において、性差別と男性支配を容認するキリスト教教義の見直し、変革なくして、文化におけるフェミニズム的変革はあり得ない、と筆者は述べます。

ただし、同時に重要なのは、キリスト教フェミニズム思想かの二元論的発想は不要だということです。二元論は分かりやすいので、そこに立脚すれば "議論" の体裁を保ちつつ簡単に相手を攻撃、排除することができます。筆者は、宗教原理主義に対するフェミニズム的批判や抵抗の必要性は訴えつつも、同時に「フェミニズム的なスピリチュアリティは、(中略)あたらしい探究の道を進む可能性を切り開いた」とし、二元論に立脚しない批判と探究の道に希望を見出しています。

 

これまでのフェミニズム運動は、人権や職場での地位など、物質的な獲得物に重点を置き、スピリチュアリティにあまり目を向けてこなかった側面がありました。しかし、そもそもフェミニズムの原点は、一種セラピー的な集まり(第2章でも触れた「コンシャスネス・レイジング」)でした。困難な状況に追い込まれ、排除された痛みを打ち明けて共有し、自身の境遇を捉え直すことによって癒され、前向きなエネルギーを獲得していく——この一連の流れはまさに「スピリチュアルな実践」です。

 

つまるところ本章は、改めて「スピリチュアリティ」に光を当てる必要性がありますよね?とフェミニズムに問いかけていると言えます。

 

<19章 未来をひらくフェミニズム

真に未来に向かって開かれているためには、具体的な現実に根ざした想像力を持たなくてはならないと同時に、そうした現実を越える可能性を心に思い描くことが必要だ。(p.170)

 

フェミニズム運動の最大の強みは、運動がその形態や方向を柔軟に変えてきたことがある」と筆者は続けます。えてして社会運動は、硬直化した考えや行動によって失敗に終わることもありますが、フェミニズムに希望を見出せるとしたら、形を変えられる点です。

 

ただし、「変化を現存する社会秩序の枠内に止めておこうとする改良主義フェミニストが運動を牛耳った結果」、特権階級の男性との経済的な平等の実現だけに熱意を注ぐこととなり、結果的に資本主義的な家父長制に取り込まれていきました。現存する社会秩序のなかでの進出に成功した女性たちは、根本的にシステムを突き崩すことに関心を失い、自分より立場の弱い女性たちを下に置き続けることを容認したのです。

わたしたちの生活を形作るシステムそのものの解体からラディカルに考え始めなければ、勝ち取ったはずの "平等" "権利" はまたいつか奪われてしまいます。堂々巡りのことを進歩的とは言いません。

 

すべての女性の、ひいてはすべての少女少年、男性の運命をも変え得る大衆的な戦略や運動が必要なことを、未来を開こうとする思想家は十分に理解しています。しかし、いまだフェミニズム理論はどうも「インテリだけが読むことのできる難しい専門用語で書かれて」おり、やさしい入門書、テレビ局やラジオといった手段をつかみきっていません。フェミニズムについて扱う媒体がさらに増えれば、それだけフェミニズムを勉強するハードルも下がるでしょう。もっとも、(たとえ望んで履いたものではなくとも)下駄を履いている男性は、まずその特権を自覚し、向き合い、使い方を再考するところから始める必要があります。

 

男女平等はもう達成された、フェミニズムはもう必要ないという声は耳にタコができるほど聞かされてきたとフックスは述べます。それでも、現実にはあらゆる場所であらゆる人がジェンダー不平等を問題視し、もっと自由になれる方法を模索し、実現に向けて努力しています(※)。そうした動きが少しずつ広まるうちに、フェミニズムがわたしたちの生活と深く関係していることが明らかとなり、その理論は手直しされながらより自由で開放的な未来を切り開くだろうと前向きなメッセージで締めくくっています。

 

(※これは個人の感想および補足になりますが、現状、それはなかなか負荷がかかる作業です。しかし、負荷が高いと感じてしまうこと自体まずおかしいのではないでしょうか。既存システムの解体を探るラディカルな思考というのは、その負荷を下げるために必須です。「負荷が高いから、それは余裕のある暇な人がやればいい」ではありません。それは、自分が誰の足を踏んでいるか考えたくない人の言い訳です。自身が被っている不利益を考えるとき、同時に自身の特権性を考えることはセットだと思っています)

 

以上で全章のまとめは終わりです。

書いたわたしも読んだあなたも頑張った!偉い!すごい!今日は自分にご褒美!

 

ここからは少しだけ、近年のフェミニズムにおけるトランス差別問題について触れておきたいと思います。専門家ではないのであくまで主観です(※説明に必要な範囲ですが差別表現が出てきます)。

 

近年のフェミニズム運動において深刻な危機だとわたしが捉えているのが、トランス排除の動きです。日本では、お茶の水女子大学トランスジェンダーの学生受け入れを決定したあたりから本格的に話題になりました。トイレなど、女性専用空間の使用をめぐり「トランス女性を装って性犯罪を犯す人が出るかもしれない」「身体男性」といった差別表現が横行し、「ジェンダー」という言葉そのものが「お気持ちの問題」「生物学的性別」という誤った意味で用いられ、拡散するきっかけともなりました。

オリンピックにおいて、女子重量挙げにトランス女性が出場権を得たことでも話題になったので、フェミニズムについて詳しくない人でも多少は耳にしたことがあるかもしれません。

 

「身体」という、本来他人にジャッジさせる俎上に乗せてはいけないものが「認定条件」のように扱われ、見た目や属性を「判断材料」に犯罪と結びつけられる人々がいます。あるいはもっと端的に「自分自身として生きることに後ろめたさを抱け」というメッセージを明暗問わず向けられる人々がいます(もっと言えば、これはトランス差別に限った話ではないとは思いますが、それはまた別のお話)。

わたし自身はトランスジェンダーの当事者ではありませんが、トランス差別には明確に反対です。トランスジェンダーの人々は「認められる」までもなく既にいて、しかし巧妙に社会からはじき出されてしまっています。その状況を容認してしまったら、フェミニズムは "みんなのもの" ではなく "トランスジェンダーの脅威" としてその足を踏みつけるものになるでしょう。『フェミニズムはみんなのもの』の中ではトランスジェンダーについて明確に述べられてはいませんが、トランス差別の容認はベル・フックスの思い描く「真に未来に向かって開かれている」フェミニズムではないと思います。

 

安易に連帯を押し付けるのは暴力的でもあるのであくまでその人の選択に委ねますが、この困難な現状を一緒に生き延びられる仲間が一人でも増えてほしい、フェミニズムがその一助になるに越したことはないという思いは、読書会を通じて獲得したわたしの考え方です。

 

長くなりました。また、更新に時間がかかってしまいごめんなさい。振り返ってみて、乱雑なまとめになったような気もしていて頭を抱えています。でもまだまだ書きたいことはあるので、マイペースにブログ書くと思います。それではまた。