忙しいひとのためのフェミニズム④

気まぐれすぎる更新ですみません。

いい加減ベル・フックスシリーズの続き書かないと干からびてしまいますね。あれ、もう干からびてますか? じゃあ水を注ぎます。

 

先日、わたしにとってだけ嬉しいニュースをもらいました。

同人サークル「夏のカノープス」で5月に出した新刊『水と空気とフェミニズム——わたし/たちが生きのびるために』で書いた、ベル・フックスの読書会の記録がなかなか好評、ということ。

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夏のカノープス『水と空気とフェミニズム——わたし/たちが生きのびるために』

 

フェミニズムという言葉は知っていても、結局なんだかよく分からないという人ができるだけ気軽に読める内容にしたいという思いで書きました。

 

他の参加者さんが書いた批評やエッセイが、これがまた面白くて。圧倒的な言葉の使い手に囲まれて、やや気圧されていたところへこんな風の便りが来たので、とても嬉しかったのです。

 

次回の11月も、編集として参加者として携わるつもりなので、よろしければお付き合いください。また、今後の予定として少し骨太な企画を準備中なのでお楽しみに。

 

さて、前置きが長くなりましたが早速続きにいきます。

次回の文フリの足音が聞こえますが、今回もベル・フックス『フェミニズムはみんなのもの 情熱の政治学』をまとめます。

 

<12章 フェミニズムの考える男らしさ>

昔もそして今も、必要とされているのは、アイデンティティの基となる自分らしさを誇りに思い、愛することができるような、男らしさのヴィジョンなのだ。(p.112)

 

フェミニズム運動が始まって間もないうちは、すべての男性を敵視する風潮が一部で確かにありました。しかし、運動が発展して思想が深まるにつれ、問題は男性にあるのではなく、家父長制=性差別的な価値観にあり、家父長的なシステムによって搾取される立場に男も女もないのだ、とほとんどのフェミニストは見てとるようになりました。

 

しかし、男vs女という二項対立のほうが分かりやすくセンセーショナルであるがゆえに、”フェミニストはすべての男性を敵視している男性差別主義者だ”という誤ったイメージが定着することになります。

こうした誤ったイメージに囚われる前に、今一度問題を捉え直す必要があります。

 

そもそも、性差別によって苦しい思いをするのは女性だけではありません。

 

「なよなよしていて男らしくない」

「男なら泣くな」

「稼ぎが少ないなんて男としてどうなの」

「童貞かよお前」

 

こういう言葉に傷つけられてきた男性はたくさんいるのではないでしょうか。そして、意識的/無意識的にかかわらず、そう言われないように振舞っている男性は、少なくないんじゃないかとわたしは想像します。

家父長主義的社会においては、男性にも女性と同様に性差別的な視線が向けられうるということです。家父長制を解体するためには、「男らしさ」の解体も必要になるのです。

 

解体とは否定することではありません。男らしさがどういう要素で構成されていて、どのような社会、政治、経済的背景のもとでどういう評価を受けている概念なのか、丁寧に分析するということです。

 

「もしフェミニズムの理論が、男らしさについてより開放的なヴィジョンを示せたなら、フェミニズム運動を男性敵視だと片付けることは誰にもできなかっただろう」とフックスは反省しています。

 

これからのフェミニズムに必要なのは、家父長主義的社会の問題点を指摘するだけではなく、何らかの応答、あるいは解決方法の提示なのです。そのひとつの手段として「男らしさ」の解体に踏み込む必要がありますよね、とフックスは示唆しているのです。

 

<13章 フェミニズムの育児>

愛情にあふれた親こそが、自分への健やかな誇りをもった健康で幸せな子どもたちを育てる可能性をより多くもっている。それがシングルだろうとカップルだろうと、同性愛者だろうと異性愛者だろうと、また、一家の稼ぎ手が女性だろうと男性だろうと、関係ない。(p.123)

 

育児をめぐるフェミニズムの課題は「ひたすら女の子の問題を優先した」ことにあるとフックスは指摘します。男性中心主義に対する批判から、女の子はつねに男の子よりも、生まれながらにして不利な状況にあるという思い込みがあったのです。しかし、女の子だけを性差別的でないように育てることは可能なのでしょうか?また、それは家父長制の打倒につながるのでしょうか?

 

11章で、支配の文化のなかではだれもが、暴力は社会をコントロールするための当然の手段であるとみなすよう社会化されているという話をしました。これはすなわち、家族というひとつの社会的単位を成立させる手段としてもまた、暴力が肯定されうることを示しています。

支配が当然視されるとき、子どもはつねに暴力と隣り合わせの環境に置かれます。家父長制は子どもをひとりの意志ある人間とみなさず、市民権を与えないシステムだからです。

 

つまり、家父長主義的社会の中にある過程では、男の子であっても女親から(物理/精神的な)暴力を受ける可能性は十分にあるし、女の子の問題ばかりに焦点を当てることは必ずしもすべてを解決するわけではないということです。

 

育児について議論するときにフェミニズムが本当に見据えるべきなのは、家父長主義的な支配をなくし、子どもにとって安心できる居場所にすることだとフックスは結んでいます。

 

<14章 結婚とパートナー関係の解放>

運動の当初から、フェミニズム運動が異議を申し立てたのは、男女関係において、性の二重基準があること、つまり、処女でない女性や夫や恋人に忠実でない女性を非難する一方で、男性にはどんな性的欲求も行動も許されるという二重基準が存在していることだった。(p.125) 

 

結婚制度は、フェミニズム運動の最盛期には「もうひとつの性的奴隷制」であるとして激しい批判にさらされました。絶望して、独身を通すかレズビアンになることを決意する女性まで現れたほどでした。では、未婚かレズビアンでなければフェミニストにはなれないのでしょうか?もっと言えば、既婚者は家父長制を批判する資格を持たないのでしょうか?

 

(これは余談ですが)わたし個人としては、この論理は既婚女性と未婚女性を分断し、女同士の対立を生む問い立てにすぎないなと思っています。しかし、家父長主義的制度から恩恵を受けていながら批判できると思っているのかという意見もあります。

皆さんはどう思われるでしょうか?

 

話がそれましたが、フェミニズムは結婚制度に対する批判を通じて「夫婦や恋人間での強かんや性的強制の横行に注意を喚起すると同時に、なによりも、女性が性的欲求を表現したり、性的行為をリードしたり、性的に満足する権利を主張」してきました。女性がしたくないときにしない権利、女性が性的な歓びを追求する権利、女性が性的に自由である権利など、「女性」が主語に来る在り方、女性のからだは男性の所有物ではないのだという考え方を提示しました。

 

対等なパートナー関係の維持に欠かせない要素、たとえば家事育児の負担についてはどうでしょうか。

今でこそ、男性の家事育児は「やればもてはやされるもの」から「やって当然のもの」にシフトしつつありますが、まだまだ十分とは言えません。性別役割分業は生物学的に(科学的に)正しいのだなどという言説もあちこちにあふれかえっています。

 

なぜかと言えば、それは女性もまた、育児において偉大なる母親という地位を男性に明け渡そうとはしなかったからです。子どもはいついかなる時も母を求めるもので、子どもに関することは母親のほうが本能的に分かっていて常に自然と反応できるのだという幻想を、誰よりも女性自身が手放さなかったという、性別役割分業の解消に向けた動きとは矛盾した態度がありました。

 

大黒柱として一家を支える男性も女性も、専業主夫や主婦になる男性も女性も、そもそもそんな固定的な発想に縛られず、誰もが社会や家庭のなかで果たす役割を自ら肯定できるような社会をつくることが大切です。将来のフェミニズム運動においては、家父長主義的な結婚への批判に多くの時間を費やすよりも、 対等な結婚=カップルのどちらもが肯定されるような状況をつくることに力を注ぐべきだとフックスは述べています。

 

<15章 フェミニズムの性の政治学 互いの自由を尊重する>

フェミニズム運動が起こる以前(中略)、女性が健全な性的主体性を主張することは、まったく不可能ではなかったにしても、非常にむずかしかった。(中略)確実性のある避妊方法ができる以前は、女性の性的な自己主張はつねに、望まない妊娠と違法な中絶の危険性という「罰」を覚悟しなければならなかった。(p.134-135)

 

 女性が真に性的に自由であるためには、確実で安全な避妊方法が必要です。それなしにただ誰とでも性交渉を持てることは、性的に自由であることとは全く違います。女性自身が自分のからだに関する知識を持ち、生殖を管理することができて初めて、性的に自由であると言えるのです。

 

それまでセックスは、男性の快楽のために女性が一方的に尽くすものであって、女性が性的に歓びを感じるなどはしたないという風潮がありました。結婚の中の痛み、悲しみの象徴としてしかセックスを認識できなかった母親世代を見て育ったフックスたちは、女性も性的快楽を得ていいのだと、セクシュアリティを肯定するフェミニズム運動に救いを見出します。

 

しかし、ここには落とし穴がありました。1960年代終わりから1970年代の初めにかけて、女性たちは性的な自由と性的な放埓を同一視するよう求められました。つまり、家父長主義的な男性によって与えられた「性的に解放された女性」のモデル=面倒臭いことをいっさい言わずにセックスする女性というあり方を引き受けるよう要求されたのです。

 

そんな欺瞞をすぐに見破った女性たちは、異性愛に幻滅し、同性愛に答えを求めたり、あるいはセックスは不要だと言ってみたり、盛んに議論が交わされました。「フェミニズムは理論、レズビアンは実践」というスローガンは、当時よく知られたものだったと言います。

 

もちろん、同性愛であることそれ自体が解放されたセックスを指すわけではありません。「解放されたセックスにとって不可欠なのはお互いを尊重し合うことであり、また、性的な歓びや満足は、それぞれの選択と互いの合意という条件の下でこそ最高に得られるものだ」とフックスは指摘します。一方で、「解放されたセックスとはどんなものなのか、わたしたちには今でも分かっていない」とも言っています。

 

重要なのは、誰とでもセックスする自由から誰ともセックスしない自由までがあらゆる人に認められていると確認すること、そして性や生殖に関するラディカルな対話が必要だという前提を共有することなのです。

 

→忙しいひとのためのフェミニズム⑤(最終回!)へ続く