「爪を彩る」行為が苦手だった話

「爪を彩る」という行為に二十数年間ずっと抵抗感を持って生きてきた。そんなわたしが、最近よくネイルをしている。

 

マニキュアもやるが、もっぱら好むのは自分でできるシールタイプのジェルネイルだ。人生で本当に一度もやったことがなかったので、マニキュアはうまく塗れずにちょっと挫折。たまたま目に入った広告で、UVランプ無料&各シール10%オフセールを知り試しに買ってみた。とても良い。自分では描けない柄もできるし、見た目も美しい。

以来、指先に少しだけ気を遣うようになった。いつでも目に入る位置に好きな色が踊っているのは、それだけで楽しいのだと知った。何もしていないときも爪を傷めないように、気が向いたときにオイルを塗ったり、整えるようになった。

 

それまでのわたしにとって、「爪を彩る」という行為はいわゆる "女らしさ" の権化で、忌避すべきものだった。シスではあるが、わたしはスカートよりズボンが好きだし、化粧は面倒だし、行かなくていいなら美容院は極力行きたくないし、ウェディングドレスを蛇蝎の如く嫌っている。

周囲で繰り返し発され、自らも無縁ではいられない "女" の記号を引き受けきれなくて、一方であっさりと楽しみ受け入れている人たちをどこか冷めた目で見ていた。装いに限らず、わたしは今も自分の中のミソジニーと闘い続けている。

 

そういう記号が苦手だったのは母の影響もある。父は仕事人間でいつも帰りが遅く、それを支えるべく母は専業主婦になった。そうでなければ母は働き続けていたかと言えばそうでもないだろうなとは思うものの、自らのケアを犠牲にしてわたしや弟の子育てと家事に明け暮れた時間が長かったのは否定できない。

 

「ネイルなんかしたら家事はできないのよ。不衛生だし。ネイルしている母親は、みんな家事をさぼっている人なのよ」

 

母はいつもこう言っていた。わたしが化粧に興味を持ち始めたときも「急に色づいちゃってなんなの?暇なら家事を手伝いなさい」。ちなみに家事を手伝えとは、弟には絶対に言わない。

トンデモ発言ではあるし、わたしが母を嫌ってしょっちゅう喧嘩する理由もまあたいがいこんなところにある。が、嫌っているはずなのに「ネイルは不衛生で悪いこと=それをするような女性は自己中心的」というイメージを、わたしはいつの間にか自分の色眼鏡として取り込んでいた。職場で見かける、爪を彩った子持ち女性社員を見る自分の目で気がついた。我に返って死ぬほど反省し、同時に怖くなった。たとえ無意識でも、わたしはそうやって他人をジャッジして生きている——

 

職場で昇進するのは男性ばかり、課の方針会議に女性は呼ばれない。「うちは女性が多い職場だから男は肩身が狭いね」という会話が飛ぶ。女子校育ちのわたしには十分な洗礼をたっぷり受けて、もはや怒りすら機能しなくなる日々だったのに。それでもわたしはミソジニストで、差別的発想を抱えていた。

ショックだった。でもいったん自覚して認めてしまえば、そんなものを抱え続けるのは疲弊するだけだと分かるようになった。要らないものをひとつ処分できたような気持ち。もちろん、部屋の中には埃だらけの不用品がまだたくさんあるけれど。

 

わたしがネイルをするようになったのは、する人の気持ちになって考えてみようとか、母への反抗ともちょっと違う。解放とか自戒とか、そういう言葉のほうがしっくりくる。相変わらず実家に帰ると母には「なにその爪」と鋭く突っ込まれるが、あまりにも爪が可愛いので気にならない。もういい大人なのだ。距離の取り方は自分で決めるし、それを越えない限りは流す。

 

ちなみに、知り合いの男性(50代手前くらい)が急に褒めてきたことがあった。今までそんな素振りはひとつもなかったのに、どうしたのだろう。よくよく聞いてみると「爪に色がついた女性は褒めることにした」のだそうだ。今までなら笑顔で「ありがとうございます」くらい口にしていたが、その時は真顔で見据えて「他人からの評価は要らないんですよ」と返した。相手の目に不機嫌の炎がちらついた。想定内すぎて拍子抜けしたが、彼なりに色々模索しているのかなと思って、あとは何も言わない。それで終わりだ。

 

爪の話だけでこんなに書けるほど、わたしにとっては存在感のある話だった。これからも何かにつけ、自身に内面化された差別意識や偏見に辟易するのだろうが、そのたびに向き合えばいいと分かっただけでもひとつ収穫はあったと思う。