国際女性デーはあらゆる女性のもの、フェミニズムはみんなのもの

2023年3月8日。国際女性デー。

わたしは今日この日を、希望にため息を交えて迎えている。

 

どうしても書いておかなければならないからだ。

この日がまだ、「あらゆる」女性のものとなっていない現実を。

フェミニズムが「みんなのもの」となっていない現実を。

記録と言えるほど精密な文章にはならないから、記憶として書き残しておく。

 

〈トランス差別について〉

今日本では、トランスジェンダーへの偏見に基づく差別と排除が活発化している。急に始まったことではない。2000年代にはジェンダーフリー=男女同室着替えバックラッシュ、最近で言えばお茶の水女子大学トランスジェンダー女性受け入れ発表(2019)や東京オリンピック(2021)を契機に、むしろ折に触れて繰り返されてきた(今現在の発端は芸能人の投稿)。

納得する気など最初からないのに「(特に新しくもなくただ差別的なだけの)素朴な疑問」を繰り返し繰り返し当事者やALLYに投げつけ、極端な事例だけを示して説明を迫り、粘着する流れも長らく固定化している。

 

それでも、今回の芸能人の投稿を巡って初めてトランスジェンダーという属性を知り、同時に恐怖を抱いた人もいるかもしれない。

まずは落ち着いて。恐怖と疑問を解消できるサイトがある。

 

トランスジェンダーに対するよくある質問(FAQ) – はじめてのトランスジェンダー trans101.jp

 

あるいはうっすら聞いたことがあって、非当事者としてトランスジェンダーについて知識を得たいと考え、一番手軽な方法としてネットで検索する人もいるかもしれない。

そこにも罠があるので慎重に。トランスジェンダーという単語を検索欄に入れると、キーワード入力補助が偏見のドアを開けて待っている。

 

トランスジェンダー 温泉」「トランスジェンダー スポーツ」「トランスジェンダー 嘘つき」「トランスジェンダー 原因」etc...

 

血の気が引いてしまう。トランスジェンダーについて「調べ、学ぶ」ために立てる問いは、ほぼ全部「公共の風呂トイレ、スポーツはどうするんだ問題」にすり替えられているのだ。まるで人間の日々の暮らしがその3つだけで成り立っているかのように。

これらの言説は総じて「~以上の理由により、トランスジェンダー(とりわけトランス女性)は性犯罪者と区別がつかない(から脅威であり、排除してよい)」と結論付けられている。

 

トランスジェンダーは性犯罪予備軍ではない。

性犯罪の罪は性犯罪者が負うのであって、トランスジェンダーではない。

当たり前のことだ。当たり前のことを言わせるな。

she/he/theyは各人の個別的な経験を生きていて、何かと忙しい現代を互いに素通りする隣人同士としてすでに居る。

 

わたしは怒っている。

恐怖によって分断を煽り、敵意を持つことだけがフェミニズムだと思っている連中に。そんなものはフェミニズムではない。

手術しろ、と簡単に言い放つシスジェンダーに。その人のからだはその人のものだ。

戸籍上の性別変更要件に、断種要項が入っていることに。誰が子を持つべきで誰がそうではないか法によって定めるなど、暴力以外のなんだと言うのだろう。

 

大手を振って当然のようにからだに手を突っ込んでくるあらゆる力に、わたしはうんざりしている。それがフェミニズムの顔をしているとき、なおさら。

セックスワーク差別について〉

2022年6月30日、東京地方裁判所性風俗産業への「持続化給付金」不支給を合憲とする判断を下した。

 

性風俗業へのコロナ給付金 不支給は“合憲” 東京地裁 | NHK | 新型コロナ 経済影響

 

客から対価を得て性的好奇心を満たすようなサービスを提供するという性風俗業の特徴は、大多数の国民の道徳意識に反するもので、異なる取り扱いをすることには合理的な根拠がある。(岡田幸人裁判長

 

あからさまな職業差別が、天下国家、法の下で堂々と肯定されてしまった。

法が差別的な現実を追認する意味は重い。

「公正なはずの裁判でそのように判断されたのだから、それが社会にとっての最適解なのではないか」

思わずそう考えてしまうに足るだけの権威を、裁判所は持っている。そして差別はさらに強化されていく。

 

公的な後ろ盾を持つ差別的なまなざしは、単に従事者を傷つけるとかいうレベルにとどまらず、沈黙を強いる。あるいは、従事者からの反発を強め、溝を広げる。いずれにせよ、トラブルが起きたときに適切なところへ声を届ける可能性を奪ってしまう。

「語る/語れる」ことは特権でもあるが、語らなければ容易に不可視化される社会において、沈黙は孤立の呼び水となる。そしてたいていの場合、孤立は悪い結果しかもたらさない。

 

セックスワークを「道徳意識に反する」として遠くに追いやり見ないふりをするのではなく、ひとつの職業であると認め、従事している人たちの安全と安心を守れ。あらゆるハラスメントや暴力が許されないのは、セックスワークも同じなのだ。

そして、そもそも従事したくない人が従事しなくていいように、他の支援や経済施策を打て。自己責任論で追い詰めるのは、最も楽で誰にでもできる気軽な人殺しだ。

 

ああ、何を書いているんだろう。

非当事者が話していいことはそう多くない。

とりあえずわたしは活字から入るタイプなので、これらの本を皮切りに、自分のアップデートを進めていきたい。

 

『セックスワークスタディーズ』『トランスジェンダー問題』『誰かの理想を生きられはしない』

新宿が遠いので、これらを読んでマーチに連帯したい

〈最後に〉

なんとかしてこの文章を出さねば、と思って書いた。他でもないフェミニズムによって、非セックスワーカーシス女性が最高にして唯一の判事となって、「女性」と認めてやっても良いのは誰なのか、選別が行われようとしている。いろんな難しさの中に、それでも希望を持ってフェミニズムしているのに、分断を進める道具になっているの??

 

違うんだよ。国際女性デーはあらゆる女性のもので、フェミニズムは(シス男性も含む)みんなのもの。

ただ、理想への道はすんごく遠くて、自分の半径2メートルくらいのところからだけでもなんとか実現できないか、わたしも考えている。でもときどき全くわからなくなるときもあって、言葉ひとつ出てこないときも、いなくなれば全部解放されると思うときもある。

疲れちゃうよね。交代でいこう。どうにもならん呪詛も一緒に吐いちゃえば、なんか新しい呪文ができるかも!

 

誰かを例外にしようとするフェミニズムにはNOを言っていかねばならない。それさえ共有できていれば、わたしはあなたと一緒にやっていける。

 

忙しいひとのためのフェミニズム⑤(最終回!)

ベル・フックス『情熱の政治学 フェミニズムはみんなのもの』まとめシリーズ、やっと最後です。お待たせしました。

今回は16~19章のまとめになるのですが、ここは最後にして一番読解に苦労しました。特に18章がちょっと難しいというか。

初めて読んだときも、読書会で議論したときも、改めて読み返しても、うなぎがするする逃げてしまうような感覚というか、つかんだと思ったのに手元にはいない、みたいな気持ちで読みました。

ちなみに、わたしはうなぎの細かい骨が苦手で食べられません。とあるアニメのおまけ番組で、料理研究家のきじまりゅうたさんが紹介されていた「うなぎの代わりにちくわで作る蒲焼き」はマジで天才だと思いました。あのタレを!食える!うなぎ以外で!

 

時代はちくわです。

 

<16章 完全なる至福 レズビアンフェミニズム

物知りで力強くやさしいレズビアンの女性たちが、まだ少女だったわたしに教えてくれ、その後も伝えつづけてくれたのは、楽しく幸せに暮らすために、女性は男性に頼る必要はないのだ、ということだった——性的な喜びという点でも、男性に頼る必要はないのだ、と。(p.149)

 

搾取される集団の一員であるからといって、全員が全員抵抗に駆り立てられるわけではありません。レズビアンだからフェミニストになるとか、レズビアンだから政治的になるという発想はあまりにも偏っています。「女性が左翼運動に関わるとき、そこにはふつう、体験に加えて自覚と選択という要素がある」とフックスは述べています。

 

十人十色の人生を歩んできた女性たちは、フェミニズム運動が本格的に活発になる前から、先んじて公民権運動や黒人左翼運動に参加していました。そこでラディカルな考えを持つと同時に、女性ゆえに従属的な立場を強いられたとき、自分自身のための闘いとしてフェミニズム運動が起こりました。

 

男性の同性愛はある程度地位を得ているのに、女性のそれは隅に追いやられていたり。ありのまま生きられるほど寛容な社会ではないがゆえに、男性との恋愛を選ぶレズビアンがいたり。フックスが生まれ育った南部の黒人社会は「厳格で狭量なキリスト教社会」であるがゆえに、その中で生きる女性たちは複雑な立場にありました。それでも、顔を上げて生きる姿勢を通じ、ありのままのじぶんでいられる自由を主張する大切さを教えてくれたのは、やはりレズビアン女性たちだったとフックスは言います。

 

主流のマスメディアが取り上げたのは、結局のところ「男性に脅威ではない」フェミニストであり、経済的にも精神的にも男性を欲望しない生き方をする女性は叩かれ、日陰者となることを強いられてきました。それは、彼女たちから語られる言葉の無効化とほぼ同義です。ゆえに、常にラディカルな議論の先頭に立ち、異性愛至上主義の壁を突き崩した彼女たちの功績は、これからも認められ、大事にされなくてはならないとフックスは結びます。

 

<17章 愛ふたたび フェミニズムの心>

フェミニズムが愛について、とりわけ異性愛の男女関係における愛について語らなかったことで、わたしたちは、家父長主義的なマスメディアがフェミニズム運動全体を、愛ではなく憎しみにもとづいた運動であるように描くことを許してしまった。(p.160)

 

フェミニズム運動が始まったころ、女性たちは異性愛の男女関係に深く失望していました。結婚した瞬間から、男性は「すてきな王子様」ではなく家父長主義的な家長に変貌してしまったからです。結果的に、運動の初期におけるフェミニズムは、異性愛を否定することで問題を解決しようとしました。フックスはその時に感じた違和感を、次のように振り返ります。

 

フェミニズムのコンシャスネス・レイジングの集まりに初めて参加し、母くらいの年の女性たちが自分の痛みや悲しみや怒りを口にし、女は恋愛なんかしてはだめだと繰り返し言うのを聞いたとき、わたしにはその意味がよく分かった。それでも、わたしはよい男性と恋愛をしたいと思ったし、わたしにはそういう愛を見つけることができると信じていた。ただ、絶対に確信していたのは、そのためにはまず、相手の男性がフェミニズムに心から賛同しなくてはならない、ということだった」

 

家父長主義的な文化における「愛」は、所有や管理、支配の概念と深く結びついています。ロマンチック・ラブを言い訳に服従を強いられることに幻滅していた女性たちは、やがて愛について語らなくなっていきました。愛から身を遠ざけ、心を石のように固くし、権力や経済力を追い求めることこそ家父長主義への抵抗であると考えるようになったのです。

しかし、それは皮肉にも(フェミニストが最も嫌悪していたはずの)家父長主義的な男性のように生きる女性を生んだだけでした。愛、家族の絆、他人と共生する価値について否定されていると感じた女性たちは、やがてフェミニズムから離れていきました。

 

「愛」という装置が覆い隠している支配構造を批判することと、愛を否定することは違います。前者を指摘した功績は確かですが、新しい「愛」のヴィジョンを示すことが出来なかったのはフェミニズムの反省点です。「すべての人の必要が尊重され、だれもが権利をもち、従属させられたり虐げられたりする不安がないような人間関係のヴィジョン」を示すことがフェミニズムの課題であり、「家父長主義的な人間関係のあり方のすべてと対決するものだ」とフックスは述べています。

 

<18章 フェミニズムスピリチュアリティ

男性に支配された宗教の性差別にもかかわらず、女性たちは信仰に、慰めや避難の場を見いだしてきた。女性たちは、西洋社会で教会の歴史が始まったときからずっと、男性の干渉なしに神と共にいられる女性だけの場として、そして男性支配なしに神聖な奉仕に身を捧げられる場として、伝統的に修道院を選んできたのである。(p.163)

 

フェミニズム運動は、家父長主義的な宗教の在り方を批判し、あらゆる差別や抑圧のイデオロギー的な基礎となっていることを指摘しました。信仰の在り方を根本的に問い直す風潮は、1960年代に若者を中心に隆盛した「新時代(ニューエイジスピリチュアリティ」と深く関連しています。長らく西洋人の精神世界を支配してきたキリスト教原理主義から離れ、キリスト教以前の土着信仰や東洋世界に目を向けたことで、キリスト教をめぐる新たな批判と解釈が展開し、その教義を捉え直す機会が生まれました。

 

アメリカ合州(原文ママ)国の圧倒的多数の市民は自分をキリスト教徒だと思っている」社会において、性差別と男性支配を容認するキリスト教教義の見直し、変革なくして、文化におけるフェミニズム的変革はあり得ない、と筆者は述べます。

ただし、同時に重要なのは、キリスト教フェミニズム思想かの二元論的発想は不要だということです。二元論は分かりやすいので、そこに立脚すれば "議論" の体裁を保ちつつ簡単に相手を攻撃、排除することができます。筆者は、宗教原理主義に対するフェミニズム的批判や抵抗の必要性は訴えつつも、同時に「フェミニズム的なスピリチュアリティは、(中略)あたらしい探究の道を進む可能性を切り開いた」とし、二元論に立脚しない批判と探究の道に希望を見出しています。

 

これまでのフェミニズム運動は、人権や職場での地位など、物質的な獲得物に重点を置き、スピリチュアリティにあまり目を向けてこなかった側面がありました。しかし、そもそもフェミニズムの原点は、一種セラピー的な集まり(第2章でも触れた「コンシャスネス・レイジング」)でした。困難な状況に追い込まれ、排除された痛みを打ち明けて共有し、自身の境遇を捉え直すことによって癒され、前向きなエネルギーを獲得していく——この一連の流れはまさに「スピリチュアルな実践」です。

 

つまるところ本章は、改めて「スピリチュアリティ」に光を当てる必要性がありますよね?とフェミニズムに問いかけていると言えます。

 

<19章 未来をひらくフェミニズム

真に未来に向かって開かれているためには、具体的な現実に根ざした想像力を持たなくてはならないと同時に、そうした現実を越える可能性を心に思い描くことが必要だ。(p.170)

 

フェミニズム運動の最大の強みは、運動がその形態や方向を柔軟に変えてきたことがある」と筆者は続けます。えてして社会運動は、硬直化した考えや行動によって失敗に終わることもありますが、フェミニズムに希望を見出せるとしたら、形を変えられる点です。

 

ただし、「変化を現存する社会秩序の枠内に止めておこうとする改良主義フェミニストが運動を牛耳った結果」、特権階級の男性との経済的な平等の実現だけに熱意を注ぐこととなり、結果的に資本主義的な家父長制に取り込まれていきました。現存する社会秩序のなかでの進出に成功した女性たちは、根本的にシステムを突き崩すことに関心を失い、自分より立場の弱い女性たちを下に置き続けることを容認したのです。

わたしたちの生活を形作るシステムそのものの解体からラディカルに考え始めなければ、勝ち取ったはずの "平等" "権利" はまたいつか奪われてしまいます。堂々巡りのことを進歩的とは言いません。

 

すべての女性の、ひいてはすべての少女少年、男性の運命をも変え得る大衆的な戦略や運動が必要なことを、未来を開こうとする思想家は十分に理解しています。しかし、いまだフェミニズム理論はどうも「インテリだけが読むことのできる難しい専門用語で書かれて」おり、やさしい入門書、テレビ局やラジオといった手段をつかみきっていません。フェミニズムについて扱う媒体がさらに増えれば、それだけフェミニズムを勉強するハードルも下がるでしょう。もっとも、(たとえ望んで履いたものではなくとも)下駄を履いている男性は、まずその特権を自覚し、向き合い、使い方を再考するところから始める必要があります。

 

男女平等はもう達成された、フェミニズムはもう必要ないという声は耳にタコができるほど聞かされてきたとフックスは述べます。それでも、現実にはあらゆる場所であらゆる人がジェンダー不平等を問題視し、もっと自由になれる方法を模索し、実現に向けて努力しています(※)。そうした動きが少しずつ広まるうちに、フェミニズムがわたしたちの生活と深く関係していることが明らかとなり、その理論は手直しされながらより自由で開放的な未来を切り開くだろうと前向きなメッセージで締めくくっています。

 

(※これは個人の感想および補足になりますが、現状、それはなかなか負荷がかかる作業です。しかし、負荷が高いと感じてしまうこと自体まずおかしいのではないでしょうか。既存システムの解体を探るラディカルな思考というのは、その負荷を下げるために必須です。「負荷が高いから、それは余裕のある暇な人がやればいい」ではありません。それは、自分が誰の足を踏んでいるか考えたくない人の言い訳です。自身が被っている不利益を考えるとき、同時に自身の特権性を考えることはセットだと思っています)

 

以上で全章のまとめは終わりです。

書いたわたしも読んだあなたも頑張った!偉い!すごい!今日は自分にご褒美!

 

ここからは少しだけ、近年のフェミニズムにおけるトランス差別問題について触れておきたいと思います。専門家ではないのであくまで主観です(※説明に必要な範囲ですが差別表現が出てきます)。

 

近年のフェミニズム運動において深刻な危機だとわたしが捉えているのが、トランス排除の動きです。日本では、お茶の水女子大学トランスジェンダーの学生受け入れを決定したあたりから本格的に話題になりました。トイレなど、女性専用空間の使用をめぐり「トランス女性を装って性犯罪を犯す人が出るかもしれない」「身体男性」といった差別表現が横行し、「ジェンダー」という言葉そのものが「お気持ちの問題」「生物学的性別」という誤った意味で用いられ、拡散するきっかけともなりました。

オリンピックにおいて、女子重量挙げにトランス女性が出場権を得たことでも話題になったので、フェミニズムについて詳しくない人でも多少は耳にしたことがあるかもしれません。

 

「身体」という、本来他人にジャッジさせる俎上に乗せてはいけないものが「認定条件」のように扱われ、見た目や属性を「判断材料」に犯罪と結びつけられる人々がいます。あるいはもっと端的に「自分自身として生きることに後ろめたさを抱け」というメッセージを明暗問わず向けられる人々がいます(もっと言えば、これはトランス差別に限った話ではないとは思いますが、それはまた別のお話)。

わたし自身はトランスジェンダーの当事者ではありませんが、トランス差別には明確に反対です。トランスジェンダーの人々は「認められる」までもなく既にいて、しかし巧妙に社会からはじき出されてしまっています。その状況を容認してしまったら、フェミニズムは "みんなのもの" ではなく "トランスジェンダーの脅威" としてその足を踏みつけるものになるでしょう。『フェミニズムはみんなのもの』の中ではトランスジェンダーについて明確に述べられてはいませんが、トランス差別の容認はベル・フックスの思い描く「真に未来に向かって開かれている」フェミニズムではないと思います。

 

安易に連帯を押し付けるのは暴力的でもあるのであくまでその人の選択に委ねますが、この困難な現状を一緒に生き延びられる仲間が一人でも増えてほしい、フェミニズムがその一助になるに越したことはないという思いは、読書会を通じて獲得したわたしの考え方です。

 

長くなりました。また、更新に時間がかかってしまいごめんなさい。振り返ってみて、乱雑なまとめになったような気もしていて頭を抱えています。でもまだまだ書きたいことはあるので、マイペースにブログ書くと思います。それではまた。

 

「爪を彩る」行為が苦手だった話

「爪を彩る」という行為に二十数年間ずっと抵抗感を持って生きてきた。そんなわたしが、最近よくネイルをしている。

 

マニキュアもやるが、もっぱら好むのは自分でできるシールタイプのジェルネイルだ。人生で本当に一度もやったことがなかったので、マニキュアはうまく塗れずにちょっと挫折。たまたま目に入った広告で、UVランプ無料&各シール10%オフセールを知り試しに買ってみた。とても良い。自分では描けない柄もできるし、見た目も美しい。

以来、指先に少しだけ気を遣うようになった。いつでも目に入る位置に好きな色が踊っているのは、それだけで楽しいのだと知った。何もしていないときも爪を傷めないように、気が向いたときにオイルを塗ったり、整えるようになった。

 

それまでのわたしにとって、「爪を彩る」という行為はいわゆる "女らしさ" の権化で、忌避すべきものだった。シスではあるが、わたしはスカートよりズボンが好きだし、化粧は面倒だし、行かなくていいなら美容院は極力行きたくないし、ウェディングドレスを蛇蝎の如く嫌っている。

周囲で繰り返し発され、自らも無縁ではいられない "女" の記号を引き受けきれなくて、一方であっさりと楽しみ受け入れている人たちをどこか冷めた目で見ていた。装いに限らず、わたしは今も自分の中のミソジニーと闘い続けている。

 

そういう記号が苦手だったのは母の影響もある。父は仕事人間でいつも帰りが遅く、それを支えるべく母は専業主婦になった。そうでなければ母は働き続けていたかと言えばそうでもないだろうなとは思うものの、自らのケアを犠牲にしてわたしや弟の子育てと家事に明け暮れた時間が長かったのは否定できない。

 

「ネイルなんかしたら家事はできないのよ。不衛生だし。ネイルしている母親は、みんな家事をさぼっている人なのよ」

 

母はいつもこう言っていた。わたしが化粧に興味を持ち始めたときも「急に色づいちゃってなんなの?暇なら家事を手伝いなさい」。ちなみに家事を手伝えとは、弟には絶対に言わない。

トンデモ発言ではあるし、わたしが母を嫌ってしょっちゅう喧嘩する理由もまあたいがいこんなところにある。が、嫌っているはずなのに「ネイルは不衛生で悪いこと=それをするような女性は自己中心的」というイメージを、わたしはいつの間にか自分の色眼鏡として取り込んでいた。職場で見かける、爪を彩った子持ち女性社員を見る自分の目で気がついた。我に返って死ぬほど反省し、同時に怖くなった。たとえ無意識でも、わたしはそうやって他人をジャッジして生きている——

 

職場で昇進するのは男性ばかり、課の方針会議に女性は呼ばれない。「うちは女性が多い職場だから男は肩身が狭いね」という会話が飛ぶ。女子校育ちのわたしには十分な洗礼をたっぷり受けて、もはや怒りすら機能しなくなる日々だったのに。それでもわたしはミソジニストで、差別的発想を抱えていた。

ショックだった。でもいったん自覚して認めてしまえば、そんなものを抱え続けるのは疲弊するだけだと分かるようになった。要らないものをひとつ処分できたような気持ち。もちろん、部屋の中には埃だらけの不用品がまだたくさんあるけれど。

 

わたしがネイルをするようになったのは、する人の気持ちになって考えてみようとか、母への反抗ともちょっと違う。解放とか自戒とか、そういう言葉のほうがしっくりくる。相変わらず実家に帰ると母には「なにその爪」と鋭く突っ込まれるが、あまりにも爪が可愛いので気にならない。もういい大人なのだ。距離の取り方は自分で決めるし、それを越えない限りは流す。

 

ちなみに、知り合いの男性(50代手前くらい)が急に褒めてきたことがあった。今までそんな素振りはひとつもなかったのに、どうしたのだろう。よくよく聞いてみると「爪に色がついた女性は褒めることにした」のだそうだ。今までなら笑顔で「ありがとうございます」くらい口にしていたが、その時は真顔で見据えて「他人からの評価は要らないんですよ」と返した。相手の目に不機嫌の炎がちらついた。想定内すぎて拍子抜けしたが、彼なりに色々模索しているのかなと思って、あとは何も言わない。それで終わりだ。

 

爪の話だけでこんなに書けるほど、わたしにとっては存在感のある話だった。これからも何かにつけ、自身に内面化された差別意識や偏見に辟易するのだろうが、そのたびに向き合えばいいと分かっただけでもひとつ収穫はあったと思う。

 

忙しいひとのためのフェミニズム④

気まぐれすぎる更新ですみません。

いい加減ベル・フックスシリーズの続き書かないと干からびてしまいますね。あれ、もう干からびてますか? じゃあ水を注ぎます。

 

先日、わたしにとってだけ嬉しいニュースをもらいました。

同人サークル「夏のカノープス」で5月に出した新刊『水と空気とフェミニズム——わたし/たちが生きのびるために』で書いた、ベル・フックスの読書会の記録がなかなか好評、ということ。

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夏のカノープス『水と空気とフェミニズム——わたし/たちが生きのびるために』

 

フェミニズムという言葉は知っていても、結局なんだかよく分からないという人ができるだけ気軽に読める内容にしたいという思いで書きました。

 

他の参加者さんが書いた批評やエッセイが、これがまた面白くて。圧倒的な言葉の使い手に囲まれて、やや気圧されていたところへこんな風の便りが来たので、とても嬉しかったのです。

 

次回の11月も、編集として参加者として携わるつもりなので、よろしければお付き合いください。また、今後の予定として少し骨太な企画を準備中なのでお楽しみに。

 

さて、前置きが長くなりましたが早速続きにいきます。

次回の文フリの足音が聞こえますが、今回もベル・フックス『フェミニズムはみんなのもの 情熱の政治学』をまとめます。

 

<12章 フェミニズムの考える男らしさ>

昔もそして今も、必要とされているのは、アイデンティティの基となる自分らしさを誇りに思い、愛することができるような、男らしさのヴィジョンなのだ。(p.112)

 

フェミニズム運動が始まって間もないうちは、すべての男性を敵視する風潮が一部で確かにありました。しかし、運動が発展して思想が深まるにつれ、問題は男性にあるのではなく、家父長制=性差別的な価値観にあり、家父長的なシステムによって搾取される立場に男も女もないのだ、とほとんどのフェミニストは見てとるようになりました。

 

しかし、男vs女という二項対立のほうが分かりやすくセンセーショナルであるがゆえに、”フェミニストはすべての男性を敵視している男性差別主義者だ”という誤ったイメージが定着することになります。

こうした誤ったイメージに囚われる前に、今一度問題を捉え直す必要があります。

 

そもそも、性差別によって苦しい思いをするのは女性だけではありません。

 

「なよなよしていて男らしくない」

「男なら泣くな」

「稼ぎが少ないなんて男としてどうなの」

「童貞かよお前」

 

こういう言葉に傷つけられてきた男性はたくさんいるのではないでしょうか。そして、意識的/無意識的にかかわらず、そう言われないように振舞っている男性は、少なくないんじゃないかとわたしは想像します。

家父長主義的社会においては、男性にも女性と同様に性差別的な視線が向けられうるということです。家父長制を解体するためには、「男らしさ」の解体も必要になるのです。

 

解体とは否定することではありません。男らしさがどういう要素で構成されていて、どのような社会、政治、経済的背景のもとでどういう評価を受けている概念なのか、丁寧に分析するということです。

 

「もしフェミニズムの理論が、男らしさについてより開放的なヴィジョンを示せたなら、フェミニズム運動を男性敵視だと片付けることは誰にもできなかっただろう」とフックスは反省しています。

 

これからのフェミニズムに必要なのは、家父長主義的社会の問題点を指摘するだけではなく、何らかの応答、あるいは解決方法の提示なのです。そのひとつの手段として「男らしさ」の解体に踏み込む必要がありますよね、とフックスは示唆しているのです。

 

<13章 フェミニズムの育児>

愛情にあふれた親こそが、自分への健やかな誇りをもった健康で幸せな子どもたちを育てる可能性をより多くもっている。それがシングルだろうとカップルだろうと、同性愛者だろうと異性愛者だろうと、また、一家の稼ぎ手が女性だろうと男性だろうと、関係ない。(p.123)

 

育児をめぐるフェミニズムの課題は「ひたすら女の子の問題を優先した」ことにあるとフックスは指摘します。男性中心主義に対する批判から、女の子はつねに男の子よりも、生まれながらにして不利な状況にあるという思い込みがあったのです。しかし、女の子だけを性差別的でないように育てることは可能なのでしょうか?また、それは家父長制の打倒につながるのでしょうか?

 

11章で、支配の文化のなかではだれもが、暴力は社会をコントロールするための当然の手段であるとみなすよう社会化されているという話をしました。これはすなわち、家族というひとつの社会的単位を成立させる手段としてもまた、暴力が肯定されうることを示しています。

支配が当然視されるとき、子どもはつねに暴力と隣り合わせの環境に置かれます。家父長制は子どもをひとりの意志ある人間とみなさず、市民権を与えないシステムだからです。

 

つまり、家父長主義的社会の中にある過程では、男の子であっても女親から(物理/精神的な)暴力を受ける可能性は十分にあるし、女の子の問題ばかりに焦点を当てることは必ずしもすべてを解決するわけではないということです。

 

育児について議論するときにフェミニズムが本当に見据えるべきなのは、家父長主義的な支配をなくし、子どもにとって安心できる居場所にすることだとフックスは結んでいます。

 

<14章 結婚とパートナー関係の解放>

運動の当初から、フェミニズム運動が異議を申し立てたのは、男女関係において、性の二重基準があること、つまり、処女でない女性や夫や恋人に忠実でない女性を非難する一方で、男性にはどんな性的欲求も行動も許されるという二重基準が存在していることだった。(p.125) 

 

結婚制度は、フェミニズム運動の最盛期には「もうひとつの性的奴隷制」であるとして激しい批判にさらされました。絶望して、独身を通すかレズビアンになることを決意する女性まで現れたほどでした。では、未婚かレズビアンでなければフェミニストにはなれないのでしょうか?もっと言えば、既婚者は家父長制を批判する資格を持たないのでしょうか?

 

(これは余談ですが)わたし個人としては、この論理は既婚女性と未婚女性を分断し、女同士の対立を生む問い立てにすぎないなと思っています。しかし、家父長主義的制度から恩恵を受けていながら批判できると思っているのかという意見もあります。

皆さんはどう思われるでしょうか?

 

話がそれましたが、フェミニズムは結婚制度に対する批判を通じて「夫婦や恋人間での強かんや性的強制の横行に注意を喚起すると同時に、なによりも、女性が性的欲求を表現したり、性的行為をリードしたり、性的に満足する権利を主張」してきました。女性がしたくないときにしない権利、女性が性的な歓びを追求する権利、女性が性的に自由である権利など、「女性」が主語に来る在り方、女性のからだは男性の所有物ではないのだという考え方を提示しました。

 

対等なパートナー関係の維持に欠かせない要素、たとえば家事育児の負担についてはどうでしょうか。

今でこそ、男性の家事育児は「やればもてはやされるもの」から「やって当然のもの」にシフトしつつありますが、まだまだ十分とは言えません。性別役割分業は生物学的に(科学的に)正しいのだなどという言説もあちこちにあふれかえっています。

 

なぜかと言えば、それは女性もまた、育児において偉大なる母親という地位を男性に明け渡そうとはしなかったからです。子どもはいついかなる時も母を求めるもので、子どもに関することは母親のほうが本能的に分かっていて常に自然と反応できるのだという幻想を、誰よりも女性自身が手放さなかったという、性別役割分業の解消に向けた動きとは矛盾した態度がありました。

 

大黒柱として一家を支える男性も女性も、専業主夫や主婦になる男性も女性も、そもそもそんな固定的な発想に縛られず、誰もが社会や家庭のなかで果たす役割を自ら肯定できるような社会をつくることが大切です。将来のフェミニズム運動においては、家父長主義的な結婚への批判に多くの時間を費やすよりも、 対等な結婚=カップルのどちらもが肯定されるような状況をつくることに力を注ぐべきだとフックスは述べています。

 

<15章 フェミニズムの性の政治学 互いの自由を尊重する>

フェミニズム運動が起こる以前(中略)、女性が健全な性的主体性を主張することは、まったく不可能ではなかったにしても、非常にむずかしかった。(中略)確実性のある避妊方法ができる以前は、女性の性的な自己主張はつねに、望まない妊娠と違法な中絶の危険性という「罰」を覚悟しなければならなかった。(p.134-135)

 

 女性が真に性的に自由であるためには、確実で安全な避妊方法が必要です。それなしにただ誰とでも性交渉を持てることは、性的に自由であることとは全く違います。女性自身が自分のからだに関する知識を持ち、生殖を管理することができて初めて、性的に自由であると言えるのです。

 

それまでセックスは、男性の快楽のために女性が一方的に尽くすものであって、女性が性的に歓びを感じるなどはしたないという風潮がありました。結婚の中の痛み、悲しみの象徴としてしかセックスを認識できなかった母親世代を見て育ったフックスたちは、女性も性的快楽を得ていいのだと、セクシュアリティを肯定するフェミニズム運動に救いを見出します。

 

しかし、ここには落とし穴がありました。1960年代終わりから1970年代の初めにかけて、女性たちは性的な自由と性的な放埓を同一視するよう求められました。つまり、家父長主義的な男性によって与えられた「性的に解放された女性」のモデル=面倒臭いことをいっさい言わずにセックスする女性というあり方を引き受けるよう要求されたのです。

 

そんな欺瞞をすぐに見破った女性たちは、異性愛に幻滅し、同性愛に答えを求めたり、あるいはセックスは不要だと言ってみたり、盛んに議論が交わされました。「フェミニズムは理論、レズビアンは実践」というスローガンは、当時よく知られたものだったと言います。

 

もちろん、同性愛であることそれ自体が解放されたセックスを指すわけではありません。「解放されたセックスにとって不可欠なのはお互いを尊重し合うことであり、また、性的な歓びや満足は、それぞれの選択と互いの合意という条件の下でこそ最高に得られるものだ」とフックスは指摘します。一方で、「解放されたセックスとはどんなものなのか、わたしたちには今でも分かっていない」とも言っています。

 

重要なのは、誰とでもセックスする自由から誰ともセックスしない自由までがあらゆる人に認められていると確認すること、そして性や生殖に関するラディカルな対話が必要だという前提を共有することなのです。

 

→忙しいひとのためのフェミニズム⑤(最終回!)へ続く

忙しいひとのためのフェミニズム③

今回の同人誌、タイトルが決まりました。

 

『水と空気とフェミニズム——わたし/たちが生きのびるために』

 

フェミニズムは、生きていくために必要なのだ。

水や空気がないと、生きていけないのと同じように。

 

タイトルに込めた思いを、サークルのTwitterでも紹介しています。

 

夏のカノープス@文フリ東京参加しますさんはTwitterを使っています 「今日の夏カノ会議で、文芸誌第二号のタイトルが決定しました!👏『水と空気とフェミニズム——わたし/たちが生きのびるために』です。 フェミニズムは「生きていくために」に必要——それこそ水や空気と同じように。→」 / Twitter

 

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タイトルに込めた思い

 

そしてこの記事では、同人誌出版のために、企画者の知識を一定レベルにするために行った読書会での課題図書、ベル・フックス『フェミニズムはみんなのもの 情熱の政治学』をまとめています。

日本語版は2003年に新水社より発刊され、その後加筆修正を経て、2020年にエトセトラブックスより復刊しました。

 

<8章 グローバル・フェミニズム

アメリカ合州国のラディカルな女性たちが、階級的上昇志向をみたすためにフェミニズムを利用する女性たちの集団に反対しなければ、西洋におけるグローバル・フェミニズムは、旧態依然たる偏見をもった階級的に強力な女性たちによって標榜され続けるだろう。(p.80)

 

7章では、白人特権階級の女性がその他の女性を"代表する"ことの暴力性について言及しています。

フェミニズムをより大衆的な運動に引き上げていくことを主張する筆者は、引き続く8章でも、国境を超える連帯について書いています。

 

「白人至上主義的で資本主義的で家父長主義的な西洋文化において、多くの文化的実践には、新植民地主義的な考え方がつきまとっている」とする筆者。

だれが土地を征服し、物を所有し、人々を支配する権利を持ってきたかという発想から脱却できない特権階級の白人女性たちは、あっという間に運動の「所有権」を宣言し、労働者階級の白人女性や貧しい白人女性、すべての有色の女性たちを従者の地位におきました。

 

たとえば、アフリカの強制的な女性器切除やタイの買売春クラブ、中国での女児殺しといった、今なお重要な関心事とされる世界の女性の問題について語るとき、それらは”野蛮で文明の遅れた国であり、啓蒙が必要である"と描きだそうとすれば、既にそこには構造的な抑圧、上から目線的な考え方が存在します。

 

植民地主義を脱却したフェミニズムの視点とは、まずもって、世界中で女性のからだに関して起こっている性差別的な事態を関連させて考えること、上から目線の正しさの押しつけをやめることなのです。

 

<9章 働く女性たち>

仕事は女性を男性支配から解放しないことを、今ではわたしたちは知っている。(p.84)

 

白人特権階級の女性は、仕事こそ女性を男性支配から解放する手段であると考えました。しかし、フックスはその考えを痛烈に批判しました。なぜなら、他の階級の女性は、すでに家計を支えるために低賃金の長時間労働に従事していたからです。

 

問題は、女性は職場でも働き、家庭でも働き、くたくたに疲弊していることにありました。低賃金の単純労働は、女性に経済的自立をもたらすどころか、一方的な搾取の犠牲者であれと言われるようなものでした。

 

解決策としてフックスは、以下の提案をしています。

・家にいて子どもを育てたいと思う男性と女性には、国が代わって給料を支払うと同時に、高校卒業の資格やそれ以上の学位を在宅でとれるような在宅教育プログラムを整える

・最新のテクノロジーを使って、家にいたい個人には、遠隔で大学の授業を見ることができ、それに加えて一定期間だけ実際の教室に出席するような形での学習を奨励する

・仕事が見つからないときには、一、二年のあいだ、すべての市民が合法的に国の援助金を受け取れるようにする

・男性も福祉の援助を平等に受けられるようにする

 

フックスが提案するこうしたプログラムや福祉支援策は、単に女性が家賃や食費などの生活費を賄えるだけの経済力を持つことを目標としているだけではありません。

フックスの定義する経済的自立とは「生活に必要な賃金を手にしつつ、自分らしい人生を幸せに生き、誇りや自尊心の持てる仕事をする」ことです。

 

女性が経済的に自立できるよう賃金格差を是正すること、そして、人生のどの段階においても、より豊かに生きるための学びの機会を得られるようにすること。

 

それができれば苦労しないよ!と叫びたくなります。

遅すぎるくらいではありますが、コロナ禍において、女性の貧困がこれまで以上に表面化した今こそ真剣に検討すべき課題ではないでしょうか。

 

<10章 人種とジェンダー

(過去に)奴隷制度廃止運動に参加した白人女性たちは、当初すべての人(白人女性と黒人)に参政権を与えるよう要求した。しかし、状況が、黒人の男性は参政権を得るものの白人女性は女性というジェンダーゆえに拒否されそうになると、白人至上主義をかかげ、白人男性と手を結ぶことを選んだのだった。(p.93)

 

アメリカにおけるフェミニズム運動(=ウーマンリブ)は公民権運動の盛り上がりと時期を同じくしています。

公民権運動に参加した白人女性は、当然ながら、白人とその他の人たちに、人種という政治的につくられた明確な地位の違いを意識しました。しかし、女性解放運動となると、彼女らはそんな違いなどなかったかのように振る舞い、その他の有色女性たちから反感を買います。

 

しかし、1970年代後半から1980年代にかけてフェミニズムに参加してきた女性(フックスもそのひとり)は「ほとんどの教育を、白人が圧倒的多数を占めているような学校のなかで受けてきた」ため、「女性運動のなかでの人種差別や白人優位を批判しやすい立場に」ありました。

 

筆者が『わたしは女じゃないの?——黒人女性とフェミニズム』というタイトルで、人種や階級について自覚するようフェミニズムに訴えたのもこの時期です。

 

「白人女性が白人至上主義を脱却することができず、フェミニズム運動が基本的に人種差別に反対できなければ、白人の女性と有色の女性のあいだに真のシスターフッドなどできない」

 

フェミニズムはこうして、性差別に限らず、あらゆる人種差別に反対していく姿勢を明確にしていきます。たとえ過去に間違った考え方をしていたとしても、それを正し、変わろうとする意志を持つことは、間違ったことに固執し続けるよりはるかに重要である、と筆者は結びます。

 

<11章 暴力をなくす>

家庭での家父長主義的な暴力は、より力をもった者がさまざまな形の強制力を使って他のメンバーを支配することは当然だ、という考えに基づいている。(p.100-101)

 

DV、ドメスティックバイオレンスについて取り上げるとき、最初に暴かれたのは男性から女性への、あるいは子どもへの暴力でした。しかし、女性もまた家父長主義的でありうる以上、同性間や女性から子どもへの暴力を含む、あらゆる暴力に注目しなければなりません。

 

 

わたしたちは暴力をどういうときに使うでしょうか。

自分の意に沿わない相手を、相手の意に反してでも従わせ、支配する強制力として用います。

物理的に殴る蹴るだけでなく、経済的に困窮させたり、条件付きでしか愛情を注がないことも一種の暴力と言えます。

 

筆者は「支配の文化のなかでは、だれもが、暴力は社会をコントロールするための当然の手段である、と見なすよう社会化されている」とし、「暴力は社会の秩序を維持する当然の手段であると教える母親は、家父長主義的な暴力と結託している」とも指摘します。

 

困難な状況を打開するために知っている唯一の方法が暴力だとしたら、子どもたちが暴力を手放すことはありません。

とりわけ育児においては、交渉や対話など、暴力に代わる手段は確かにあって、しかも暴力よりも有効であるということを示す必要があるのです。

 

→忙しいひとのためのフェミニズム④へ続く

 

 

忙しいひとのためのフェミニズム②

同人誌を出したいので、フェミニズムについて勉強することにしました②。

 

こんにちは。

前回からだいぶ間が空いてしまいました。

気が付けば新年度が始まった……

花粉との戦いにたまりかねて念願の空気清浄機を購入し、昼夜問わず馬車馬のように働かせています。料理をしていると特によく反応します。

先日、バレないように弱火でそろりそろり火をつけたら、すぐに「空気が!汚いですよ!」ランプが真っ赤に点灯してウィンウィンうなり出しました。なかなか手ごわいです。

 

さて、前回の続き、引き続きベル・フックス『フェミニズムはみんなのもの 情熱の政治学』を読んでいきます。

念のため再掲しますが、本著書はアフリカ系アメリカ人、労働者階級出身というルーツを持つ女性ベル・フックスによるフェミニズム入門書です。

日本語版は2003年に新水社より発刊され、その後加筆修正を経て、2020年にエトセトラブックスより復刊しました。

 

<4章 批判的な意識のためのフェミニズム教育>

みんなにフェミニズムの思想と理論を教えるには、学生やインテリ層だけでなくもっとさまざまな人々に呼びかけ、書かれた文字だけではない手段を使わなければならない。ほとんどの人はフェミニズムの本を読む技術をもたない。本を吹き込んだテープ、歌やラジオやテレビなどをすべて使って、フェミニズムの知識を伝えることができる。(p.46)

 

2章で触れたように、フェミニズムを学ぶ場としての出発点は、女性グループの中でした。性差別とは何か、家父長制といかに闘うか、新しい社会のモデルとはどんなものか、自分たちの体験を持ち寄りながら、集いの中で女性たちは考え始めます。

 

こうした場でなんとなく形になったフェミニズム理論は、口頭で、あるいはパンフレットで、次いで出版されるようになり、少しずつ体系化されていきます。

 

このようにして、フェミニズムの本が出版されたり、歴史の中で葬られてきた女性たちの作品に光が当てられるようになったのは、地道なフェミニズム運動の成果のひとつでもあります。

やがて、女性の作品を学問や研究の対象とすることが制度的に認められるようになると、女性学という形で、ジェンダーや女性について、ひいては偏見や差別意識、階級や人種について、誰もが批判的に学べるようになりました。

 

しかし、フェミニズムはここで、学問として認められたがゆえの閉鎖性に直面します。

「専門家にしかわからない難しい用語を駆使したメタ言語学的な理論が注目されるようになった」り、「「内輪」にだけ通じる難解な理論を書くエリート集団をつくりはじめたかのよう」になっていきました。

 

高尚で退屈で、実践から離れた理論のためのフェミニズムでは意味がありません。

 

筆者はこうした閉鎖性を顧みて、「文章はさまざまなスタイルや形式で書かれる必要がある」と述べています。それは子どものための絵本であったり、あるいは若者文化に照準をあてた歌やラジオであったりと、学問の領域に留まらず、様々な媒体を想定しています。

 

みんなが生きやすい社会をつくるために、みんなに開かれた運動となっているか?という問いが、フェミニズムを正しい方向へと導くひとつの指針となりそうです。

 

<5章 わたしたちの身体、わたしたち自身 リプロダクティブ・ライツ> 

性と生殖に関する権利(リプロダクティブ・ライツ)は、わたしたちが大衆的なフェミニズム運動の炎を再び燃え上がらせようとするときにも、重要な課題でありつづけるだろう。女性たちが、自分自身のからだに起こることを選ぶ権利をもたないなら、わたしたちの生活の他の領域の権利をも手放す危険をおかすことになる。(p.55) 

 

1960年代における性革命(*)は、女性たちを望まない妊娠という問題に直面させました。

*たとえば、未婚女性の婚前交渉は恥だとするような伝統的な性道徳観や、性に関する社会通念からの解放を目指す動きを指します。

 

安全で効果的な避妊方法、あるいは中絶方法を選択できた女性など、階級的な特権を持つ裕福な白人女性以外、当時はほとんどいませんでした。真に性の解放を目指すならば、何よりもまずすべての女性が、こうした方法に平等にアクセスできるようにしなければなりません。

 

しかし、避妊や中絶に関心をもつ女性は性的にルーズであるとみなされたり、(女性の存在理由は子どもを産むことにあるとする)キリスト教教義への反逆とみなされたりして、権利を求める運動は保守系からの攻撃にさらされることになりました。

自分で自分のからだを管理する権利を手にできないとき、女性はつねに無力な立場に置かれ、一方的な搾取の犠牲になり得るにもかかわらず、です。

残念なことに、こうした反動は現在もまだ様々な地域で起きています。

 

また、避妊や中絶だけがリプロダクティブ・ライツのすべてではありません。

筆者は、今後のフェミニズムの課題として性教育や予防的な健康管理やすぐに手に入る避妊手段がすべての女性に提供され」ることを包括的に、そして不断にとりあげるべきであると述べています。

 

<6章 内面の美、外見の美>

フェミニズム革命とそれによってもたらされた衣服によって女性たちが教わったことは、わたしたちの肉体は自然なままで愛や称賛に値する、ということである。その女性が、自らもっと着飾りたいと選択するのでないかぎり、何もつけ加えられる必要はないのだ。(p.58)

 

フェミニズム改革が成し遂げた功績のひとつは、「女の価値は外見次第」ではないと宣言し、女性解放の核心に迫ったことでした。

それは具体的には、コルセットなど、不健康で窮屈でからだを締めつけるような衣服から女性を解放し、「女性たちが、その人生のあらゆる段階において心地よい衣服を身に着けてよいことを、より深いレベルで確認するもの」でした。

 

しかし、化粧品やファッション業界の経営者や資本家たちは、こうした動きによって自分たちの商品が売れなくなるのではないかと恐れ、マスメディアを通じて「フェミニストとはデブでブスで男まさりの中年女だ」というイメージを拡散していきます。

 

 こうした業界に対しフェミニストは、サイズや体系の多様性に富んだ商品を作るよう要求しました。同時に、女性たちは自らの選択として美しさやスタイルへの愛を追求できるのだと示し、男性からの評価を前提にした外見の美に代わる、女性による女性のための外見の美という考え方を提案しました。

 

フェミニストの呼びかけは医薬業界にも及びます。

消費としてお金を使う圧倒的な数の女性たちが、女性のためのヘルスケアの場を求めていることを知るや、業界は女性のからだをより尊重し大きな安心と健康をもたらすよう方向転換しました。

たとえば、外見についての強迫観念がもたらす健康障害として代表的な拒食症や過食症、あるいは女性に多い癌(なかでも乳がん)についてこれほど積極的に取り上げられるようになったのは、こうした運動の成果のひとつです。

 

それでも、今なお女性たちは、自分の値打ちや美しさや本質的な価値が、より若く、よりやせているかどうかで決まるという呪いから解放されてはいません。ある一定の規格から外れた商品は、一般の人向けに売られるものより高価に設定されている場合も多く、平等なアクセスが確保されているとは言いがたい状況です。

 

性差別的な感性がそこかしこに氾濫する状況に対するフェミニズムの課題を、筆者は「(性差別をなくすような)新しい美のイメージを創りだし」、「美についての性差別的な基準をなくす闘いを」継続することであると指摘しています。

 

<7章 フェミニスト階級闘争

女性解放運動が始まったとき、参加者のほとんどは白人であり、そこで一番際立った分断は階級による分断だった。労働者階級の白人女性たちは、運動のなかに、階級差が存在していることに気づいていた。(中略)しかし、フェミニズム運動が進展し、特権をもった高学歴の白人女性の集団が、特権階級の男性と平等に権力を手にするチャンスを得るようになると、フェミニズムにとって、階級闘争はもはや重要な物とは見なされなくなった。(p.65)

 

6章までは、フェミニズムと社会のかかわりについて述べてきましたが、本章ではフェミニズムが内包する課題に焦点を当てていきます。

 

引用の通り、階級差による女性の分断は長らく、フェミニズム運動に参加した女性たちの議論の的でした。

 1960年代前半において、高学歴特権階級の白人女性とそれ以外の女性たちでは、それぞれが感じる危機が明確に異なっていました。著者は、「特権階級の女性たちが、家庭に閉じ込められることの危険性について不満を述べていたとき、アメリカの圧倒的多数の女性たちは家の外で仕事に就いていた」と描写します。

 

さらに筆者は、1970年代半ばに出版されたシャーロット・バンチとナンシー・マイロン編『階級とフェミニズム』に取り上げられたリタ・メイ・ブラウンを引用し、階級の本質を「階級は、その人の態度や物の見方、その人が受けた躾、自分自身や他人からどう見られるか、将来の展望、問題の理解と解決法、さらには、その人がどう考え、感じ、行動するかといった、すべてに関わるもの」と表現します。

 

単に経済的に裕福か貧しいかといった差ではないということです。

 

しかし、自らこそがフェミニズム運動を牽引し、他の女性たちを代表するのだと息まく白人特権階級の女性たちが行ったのは、結局のところ、自分たちと同じ白人特権階級の男性と同等の社会的立場、経済力の獲得でした。

結果的に、白人至上主義に見事に加担する形となったのです。

 

白人特権階級の女性たちが職場における男女平等を実現したと思っているとき、そこに残ったのは、相変わらず家政婦や下働きなど、低賃金労働によって搾取され続ける他の階級の女性たちでした。

 

平等の実現に見せかけて、実際は他者からの搾取を前提にするならば、それはフェミニズムに対する裏切りであり、目指すべきところではありません。

いまだ厳然と横たわる階級の問題から目を背けず、議論し続けることが肝要です。

 

 

→忙しいひとのためのフェミニズム③へ続く

 

 

 

忙しいひとのためのフェミニズム①

同人誌を出したいので、フェミニズムについて勉強することにしました。

 

こんにちは。

吹き荒れる春の嵐に舞う花粉で、筆者の目は既に限界を迎えています。

ここ東京では3月上旬から中旬がピークらしく、、、これからじゃん、、、、、

 

さて、前回の記事で今年も同人誌出しますということを書きました。

そして、フェミニズムについて勉強しようという流れになっています。

 

 

お堅い

過激かよ。

男女平等をうるさく叫ぶんですか。

 

と思いますよね、ええ。

思わなかったとしても、同人誌という言葉とはちょっとなじまない気がします。

 

正直まだどんな企画にしようとか何を書こうとか迷ってて、決められていないんですよ。

だからヒントをもらおうと思って。

 

手始めに、入門書としてベル・フックス『フェミニズムはみんなのもの 情熱の政治学を取り上げ、週一ペースで読書会を設けることにしました。

こちらは、2003年に発表された同題本に加筆、修正をくわえて2020年にエトセトラブックスより復刊したものとなります。

 

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入門書として非常に読みやすく、包括的にまとめてあります

著者ベル・フックスは、アフリカ系アメリカ人の労働者階級出身者としてフェミニズム運動の変遷を追ってきました。

当然ながら、この入門書で扱っているのは主にアメリカのフェミニズムで、日本とは背景が異なる場合もあります。

しかし、フェミニズムを理解するうえで必要な視座、日本社会に応用するヒントは十分にちりばめられていると思います。

 前座が長くなってしまいましたが、各章ごとに小分けしてまとめていきますね。

(ちなみにこの勉強会、2月10日にとっくにスタートしていたにもかかわらず、全然こまめにまとめない筆者)

 

<はじめに フェミニズムを知ってほしい>

どこかへ講演に行って、わたしがだれでどんなことをしているのかたずねられるといつも、「わたしは作家で、フェミニズムの理論家で、文化批評家です」と胸をはって答える。(中略)たいていの人はおもしろがって、もっと知りたがる。(中略)でも、フェミニズムの理論となると——だれも話を聞きたいと言わなくなるのだ。(p.6)

 

こういう反応を目にするたび、著者は「いつも手元に小さな本があればいいなと思う」のだそうです。だからこの本を書くのだ、と。

(あれ、発想が同人誌といssy、、、)

 

フェミニズムとは、性にもとづく差別や搾取や抑圧をなくす運動のことだ」

反男性運動ではない、という点に注意です。

性別関係なく、もれなく全員、この世に生まれ落ちたからには「性差別的な考えや行動を受け入れるよう社会化されている」と著者は述べています。

そして、「性差別的な考えや行動をやめてフェミニズム的な考えや行動をとらない限り、連綿と続く性差別に加わっているということ」です。

 

男性から容姿を「褒められて」嬉しかった女性も。

家事を「手伝って」周囲から賞賛された男性も。

 

もれなく性差別加担者であると言われていきなり残酷ですね。

(こういうショッキングな発想がぐいぐい目白押しで、何よりもまず過去の自分に向き合いたくなくなるのがフェミニズムを知る洗礼のような気もします)

 

男女関係なく性差別的でありうる、そしてフェミニズムの目標は性にもとづく差別や搾取や抑圧をなくす運動のこと、だからこそみんなのものですよ、というのが著者の出発点です。

 

<1章 フェミニズム わたしたちはどこにいるのか>

人々がふつう、メディアでいちばんよく見聞きするフェミニズムとは、ジェンダーに関する平等を最優先に考えて行動している——たとえば、同一労働に同一賃金を、とか、女性と男性で家事や育児を分担しよう、とかいった——女性たちの姿だろう。(中略)たしかに、怒りをこめて男性支配に抗議した初期のフェミニズム運動には、「男は敵」といった雰囲気が多分にあった。(中略)(しかし)フェミニズム運動が進むにつれ、女性たちが悟るようになったのは、性差別的な意識や行動を支えている集団は男性だけではない——女性もまた差別的でありうる——ということだった。そうなると、男性への敵視感情はもはやフェミニズム運動を支える意識ではなくなった。運動の焦点は、ジェンダーにおける公正さを求めることに移ったのである。(p.14-16)

 

「女性たちは、女性のなかにある性差別意識に向き合うことなしには、フェミニズムのさらなる発展に向かって団結することはできな」いのです。

 

ここでいったん、アメリカにおけるフェミニズム運動の勃興について触れます。

アメリカのフェミニズム運動は、公民権運動のあとに台頭してきました。

7、8章でも触れますが、当初フェミニズム運動の先頭に立っていたのは、公民権運動に参加したにもかかわらず、女性であるということを理由に参政権を得られそうになくなっていた白人女性たち(改良主義フェミニスト)です。

こうした白人女性らを冷ややかに見つめていたのは、従属的地位に据え置かれていた黒人、有色女性たち(革命主義的フェミニスト)でした。

 

 

改良主義「現存する制度の枠内での男性との平等だけを運動の目的にしようとした」

革命主義「現在の白人中心で資本主義的な家父長制(*)社会の枠内での平等などありえない」

フェミニズム理論において、男性支配の権力構造を広くとらえる意味で用いられます。

 

現存する権力構造を変えられたら、困るのは階級のトップにいた白人男性たち。家父長制の恩恵を受けており、革命主義的フェミニストは彼らにとって、自分たちの地位を脅かしかねない存在でした。

家父長制を根底から批判するのではなく、かつ白人至上主義に貢献してくれるなら歓迎しますよ、ということで、改良的フェミニストだけが迎え入れられるようになっていきます。

しかも、より広範に「迎え入れられる」を追求した結果、フェミニズムは「自分や文化を根本から問い直したり変革したりすることなしに、だれでもフェミニストになれる」という考え方へ変貌していきました。

著者は人工妊娠中絶の例を挙げます。

 

もしフェミニズムが性による差別や抑圧をなくす運動だとしたら、そして、女性から性と生殖をめぐる権利や自由を奪うことは性差別的な抑圧の一形態だとしたら、女性が中絶するかどうかを選ぶ権利に反対する「反チョイス派」でありながらフェミニストであることはできない。(p.20)

 

政治的信条、スタンスの再考なしに、だれでもフェミニストになれるわけではないということです。

 

<2章 コンシャスネス・レイジング たえまない意識の変革を>

人はフェミニストに生まれない、フェミニストになるのだ。人は、ただ単に、幸いにも女性に生まれたという理由でフェミニズムの支持者になるわけではない。すべての政治的立場と同じように、人がフェミニズムの支持者になるのは、選択と行動でなのだ。(p.23)

 

女性もまた性差別的でありうるということは、1章でも確認しました。

つまり、女性がまず自身の意識を変える=コンシャスネス・レイジング(*)ことが必要なのです。

*家父長制の何たるかを知り、それがいかにすみずみまで張り巡らされていて、維持する力がどれほど強いかを学ぶことを総称します。

 

フェミニズムは当初、一種のセラピーのような役割を果たしていたと著者は綴ります。

女性が犠牲にされてきたことを告白し、癒しの場として機能したことで、女性たちは家父長制に立ち向かう力を得ていきます。

 

しかし、こうした集まりから生まれた理論が体系的な学問として認められるようになると、皮肉にも ”開かれた癒しの場" は "閉じた大学の教室" に取って代わられ、大衆から遠ざかっていきました。

フェミニズムを机上の理論で終わらせないためには、もう一度大衆の場に戻し、よりたくさんの人に開かれた運動にする必要があります。

(ちなみに、この章について議論していて「同人誌作るためのこういう勉強会も、一種のコンシャスネス・レイジングと言えるよね」という話になり、ああ!と納得がいきました。別に勉強会でなくても、飲みやおしゃべりの場だっていいのです)

 

<3章 女の絆は今でも強い>

シスターフッド・イズ・パワフル(女同士の絆は強い)」というスローガンが最初に使われたとき、それはびっくりするような大事件だった。(p.32)

 

著者が初めてフェミニズム運動に参加したのは、1970年代前半、大学二年生のときでした。

「助け合い」「絆」一つとっても、男性同士なら受け入れられて美化されるのに、女性同士のそれは軽く扱われ、あまつさえ分断されてきた社会に、女性同士の政治的連帯の土台を初めて作ろうとしたフェミニズムは大きな変化をもたらしました。

しかし、この連帯にはすぐに(2章でも触れたように)人種差別が持ち込まれ、分裂、階層化していきました。

 

本当の意味ですべての女性が連帯できる「シスターフッド」を築くこと。

いずれ、女性に限らずすべての人に開かれた連帯の土台となること。

 

新しいフェミニズムには、こうした目標が不可欠なのです。

 

→忙しいひとのためのフェミニズム②へ続く