忙しいひとのためのフェミニズム①

同人誌を出したいので、フェミニズムについて勉強することにしました。

 

こんにちは。

吹き荒れる春の嵐に舞う花粉で、筆者の目は既に限界を迎えています。

ここ東京では3月上旬から中旬がピークらしく、、、これからじゃん、、、、、

 

さて、前回の記事で今年も同人誌出しますということを書きました。

そして、フェミニズムについて勉強しようという流れになっています。

 

 

お堅い

過激かよ。

男女平等をうるさく叫ぶんですか。

 

と思いますよね、ええ。

思わなかったとしても、同人誌という言葉とはちょっとなじまない気がします。

 

正直まだどんな企画にしようとか何を書こうとか迷ってて、決められていないんですよ。

だからヒントをもらおうと思って。

 

手始めに、入門書としてベル・フックス『フェミニズムはみんなのもの 情熱の政治学を取り上げ、週一ペースで読書会を設けることにしました。

こちらは、2003年に発表された同題本に加筆、修正をくわえて2020年にエトセトラブックスより復刊したものとなります。

 

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入門書として非常に読みやすく、包括的にまとめてあります

著者ベル・フックスは、アフリカ系アメリカ人の労働者階級出身者としてフェミニズム運動の変遷を追ってきました。

当然ながら、この入門書で扱っているのは主にアメリカのフェミニズムで、日本とは背景が異なる場合もあります。

しかし、フェミニズムを理解するうえで必要な視座、日本社会に応用するヒントは十分にちりばめられていると思います。

 前座が長くなってしまいましたが、各章ごとに小分けしてまとめていきますね。

(ちなみにこの勉強会、2月10日にとっくにスタートしていたにもかかわらず、全然こまめにまとめない筆者)

 

<はじめに フェミニズムを知ってほしい>

どこかへ講演に行って、わたしがだれでどんなことをしているのかたずねられるといつも、「わたしは作家で、フェミニズムの理論家で、文化批評家です」と胸をはって答える。(中略)たいていの人はおもしろがって、もっと知りたがる。(中略)でも、フェミニズムの理論となると——だれも話を聞きたいと言わなくなるのだ。(p.6)

 

こういう反応を目にするたび、著者は「いつも手元に小さな本があればいいなと思う」のだそうです。だからこの本を書くのだ、と。

(あれ、発想が同人誌といssy、、、)

 

フェミニズムとは、性にもとづく差別や搾取や抑圧をなくす運動のことだ」

反男性運動ではない、という点に注意です。

性別関係なく、もれなく全員、この世に生まれ落ちたからには「性差別的な考えや行動を受け入れるよう社会化されている」と著者は述べています。

そして、「性差別的な考えや行動をやめてフェミニズム的な考えや行動をとらない限り、連綿と続く性差別に加わっているということ」です。

 

男性から容姿を「褒められて」嬉しかった女性も。

家事を「手伝って」周囲から賞賛された男性も。

 

もれなく性差別加担者であると言われていきなり残酷ですね。

(こういうショッキングな発想がぐいぐい目白押しで、何よりもまず過去の自分に向き合いたくなくなるのがフェミニズムを知る洗礼のような気もします)

 

男女関係なく性差別的でありうる、そしてフェミニズムの目標は性にもとづく差別や搾取や抑圧をなくす運動のこと、だからこそみんなのものですよ、というのが著者の出発点です。

 

<1章 フェミニズム わたしたちはどこにいるのか>

人々がふつう、メディアでいちばんよく見聞きするフェミニズムとは、ジェンダーに関する平等を最優先に考えて行動している——たとえば、同一労働に同一賃金を、とか、女性と男性で家事や育児を分担しよう、とかいった——女性たちの姿だろう。(中略)たしかに、怒りをこめて男性支配に抗議した初期のフェミニズム運動には、「男は敵」といった雰囲気が多分にあった。(中略)(しかし)フェミニズム運動が進むにつれ、女性たちが悟るようになったのは、性差別的な意識や行動を支えている集団は男性だけではない——女性もまた差別的でありうる——ということだった。そうなると、男性への敵視感情はもはやフェミニズム運動を支える意識ではなくなった。運動の焦点は、ジェンダーにおける公正さを求めることに移ったのである。(p.14-16)

 

「女性たちは、女性のなかにある性差別意識に向き合うことなしには、フェミニズムのさらなる発展に向かって団結することはできな」いのです。

 

ここでいったん、アメリカにおけるフェミニズム運動の勃興について触れます。

アメリカのフェミニズム運動は、公民権運動のあとに台頭してきました。

7、8章でも触れますが、当初フェミニズム運動の先頭に立っていたのは、公民権運動に参加したにもかかわらず、女性であるということを理由に参政権を得られそうになくなっていた白人女性たち(改良主義フェミニスト)です。

こうした白人女性らを冷ややかに見つめていたのは、従属的地位に据え置かれていた黒人、有色女性たち(革命主義的フェミニスト)でした。

 

 

改良主義「現存する制度の枠内での男性との平等だけを運動の目的にしようとした」

革命主義「現在の白人中心で資本主義的な家父長制(*)社会の枠内での平等などありえない」

フェミニズム理論において、男性支配の権力構造を広くとらえる意味で用いられます。

 

現存する権力構造を変えられたら、困るのは階級のトップにいた白人男性たち。家父長制の恩恵を受けており、革命主義的フェミニストは彼らにとって、自分たちの地位を脅かしかねない存在でした。

家父長制を根底から批判するのではなく、かつ白人至上主義に貢献してくれるなら歓迎しますよ、ということで、改良的フェミニストだけが迎え入れられるようになっていきます。

しかも、より広範に「迎え入れられる」を追求した結果、フェミニズムは「自分や文化を根本から問い直したり変革したりすることなしに、だれでもフェミニストになれる」という考え方へ変貌していきました。

著者は人工妊娠中絶の例を挙げます。

 

もしフェミニズムが性による差別や抑圧をなくす運動だとしたら、そして、女性から性と生殖をめぐる権利や自由を奪うことは性差別的な抑圧の一形態だとしたら、女性が中絶するかどうかを選ぶ権利に反対する「反チョイス派」でありながらフェミニストであることはできない。(p.20)

 

政治的信条、スタンスの再考なしに、だれでもフェミニストになれるわけではないということです。

 

<2章 コンシャスネス・レイジング たえまない意識の変革を>

人はフェミニストに生まれない、フェミニストになるのだ。人は、ただ単に、幸いにも女性に生まれたという理由でフェミニズムの支持者になるわけではない。すべての政治的立場と同じように、人がフェミニズムの支持者になるのは、選択と行動でなのだ。(p.23)

 

女性もまた性差別的でありうるということは、1章でも確認しました。

つまり、女性がまず自身の意識を変える=コンシャスネス・レイジング(*)ことが必要なのです。

*家父長制の何たるかを知り、それがいかにすみずみまで張り巡らされていて、維持する力がどれほど強いかを学ぶことを総称します。

 

フェミニズムは当初、一種のセラピーのような役割を果たしていたと著者は綴ります。

女性が犠牲にされてきたことを告白し、癒しの場として機能したことで、女性たちは家父長制に立ち向かう力を得ていきます。

 

しかし、こうした集まりから生まれた理論が体系的な学問として認められるようになると、皮肉にも ”開かれた癒しの場" は "閉じた大学の教室" に取って代わられ、大衆から遠ざかっていきました。

フェミニズムを机上の理論で終わらせないためには、もう一度大衆の場に戻し、よりたくさんの人に開かれた運動にする必要があります。

(ちなみに、この章について議論していて「同人誌作るためのこういう勉強会も、一種のコンシャスネス・レイジングと言えるよね」という話になり、ああ!と納得がいきました。別に勉強会でなくても、飲みやおしゃべりの場だっていいのです)

 

<3章 女の絆は今でも強い>

シスターフッド・イズ・パワフル(女同士の絆は強い)」というスローガンが最初に使われたとき、それはびっくりするような大事件だった。(p.32)

 

著者が初めてフェミニズム運動に参加したのは、1970年代前半、大学二年生のときでした。

「助け合い」「絆」一つとっても、男性同士なら受け入れられて美化されるのに、女性同士のそれは軽く扱われ、あまつさえ分断されてきた社会に、女性同士の政治的連帯の土台を初めて作ろうとしたフェミニズムは大きな変化をもたらしました。

しかし、この連帯にはすぐに(2章でも触れたように)人種差別が持ち込まれ、分裂、階層化していきました。

 

本当の意味ですべての女性が連帯できる「シスターフッド」を築くこと。

いずれ、女性に限らずすべての人に開かれた連帯の土台となること。

 

新しいフェミニズムには、こうした目標が不可欠なのです。

 

→忙しいひとのためのフェミニズム②へ続く